当館アジアギャラリーでは「あじび研究所」と題して、2018年度より全7回に渡って作品1点を深掘りするコーナー展示を試みました。
本ブログでは、その時の写真やテキストを改めてご紹介します。
第1回目は、ベトナムの現代絵画≪海の印象≫です。
グエン・クアン(ベトナム、1948-)
≪海の印象≫1993年
油彩・画布
102×145cm
福岡アジア美術館所蔵
本作は、ドイモイ(刷新)時代を代表する作品で、1993年に制作されました。ドイモイとは、1986年にベトナム共産党第6回党大会で提起されたスローガンで、社会主義国家であるベトナムに、市場原理や開放政策を導入し、経済発展を目指すものです。1975年に終結したベトナム戦争は、国土を荒廃させ、人々は貧困に苦しみましたが、ドイモイ路線では経済の立て直しに加えて、文芸界やマスコミに対する規制緩和が行われるなど、様々な自由化がはかられました。
美術の世界においても、これまで兵士や農民、労働者たちを賛美する社会主義リアリズムやプロパガンダ美術などが主流でしたが、多様なモチーフや表現が受け入れられるようになります。街には商業ギャラリーが出現し、海外での展示の機会も増えました。グエン・クアンはベトナムが復興していくなかで、新しい価値観を体現した草分け的存在であり、ベトナムの現代美術に大きな功績を残しています。
ヨーロッパへの留学
グエン・クアンは、1948年ハノイの北西に位置するフート省に生まれます。先祖は代々、ハタイ省の儒学者の家系でした。ハイフォン市とハノイ市で学生時代を過ごすかたわら、美術へ関心を持った青年は、高名な画家ナム・ソン(1890-1973)から絵画の手ほどきを受けます。しかし、1960年代になりベトナム戦争が激しさを増すと、軍の高官の子息であったグエン・クアンは、東ドイツへと留学します。1971年に卒業したメルゼブルク大学では、数学と人工頭脳学を専攻しますが、留学中も美術への関心はうすれず、西洋の名画に触れつつ、絵を描き続けました。
ハノイ美術大学で教鞭をとる
帰国後は、外国語学校でドイツ語を教えます。それから70年代後半になると、自身の作品をグループ展で発表するようになります。1978年、ハノイ美術大学に美術理論のコースが設けられると、グエン・クアンはほぼ独学ながら、留学の経験を活かして教鞭を取り始めます。この時期の作者は、静物画や愛国的なテーマの絵画を描いたり、家族や愛を主題に制作していました。私生活でも結婚し2人の子供をもうけます。
当館所蔵の≪西湖≫(1982年)が描かれたのもこの頃で、舞台となったハノイ中心部に位置する西湖は、恋人たちの憩いの場としても知られています。絵のなかには、赤いシャツの女性が、まるで昔を回想するかのように、小径を走る自転車を眺めています。大きくたなびく雲は、まるで生き物のように空を覆い、湖は思い出を飲み込むかのように隆起して見えます。想像を交えた色使いには、ポスト印象主義(注1)や表現主義などの影響がうかがえます。留学時代の習作においては、雲や小径が、さらに現実とはかけ離れた荒々しいタッチと色で描かれています。
(注1)1880年代から1890年代初頭にかけて、印象派の柔らかな色彩や形態に満足しなかった作家らにより、鮮やかな色彩や明確な輪郭線を用いながらより感情や観念にそくした表現が追求された。代表的な作家にゴッホやゴーガンがおり、ポスト印象主義という言葉は、彼らの死後批評家のロジャー・フライによって付けられた。
≪西湖≫1982年
評論家としての活動
80年代後半になると、グエン・クアンはいくつかの重要なポストに就任します。1984年から89年にかけて、ベトナム造形美術家連盟の事務局長をつとめます。86年からは、この連盟が発行する批評誌の編集長を務め、出版元である文化省の美術出版社の副代表も兼任します。連盟の若返りをかけて選出されたグエン・クアンは、このとき30代半ばでした。彼は、プラハで美術史を学んだタイ・バー・ヴァンを執筆者として起用し、ピカソやゴッホ、ダリやマグリットなど西洋の美術動向を積極的に紹介します。また美術大学の学生に、仲間の展覧会評を書かせるなど、雑誌を意見交換の場として活用します。さらに1986年には、美術作家約30名を集めてハノイ郊外でワークショップを開催します。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンらが行ったワークショップに想を得たもので、3週間に渡るプログラムを通して、共同体にしばられない個人の表現が追求されました。
この時期のグエン・クアンは、翻訳や文学本の編集を手掛けつつ、『ラファエロ』、『ベトナム現代造形美術』、『形と色について』といった3冊の美術本を執筆するなど、マルチな才能を開花させていきます。しかしながら、彼のベトナム美術における「ドイモイ(刷新)」活動は、古参の連盟作家や文化省から、必ずしも歓迎された訳ではありませんでした。ベトナム美術の動向ではなく、海外の美術に重きを置くことに不満を持った人々によって、1989年、グエン・クアンは編集長のポストから外されることになります。その後は、ハノイ画壇からやや距離を置き、自身の制作に没頭していきますが、グエン・クアンのもたらした新たな風は、ベトナムの若い作家たちへと受け継がれていきます。
孤独と飛躍のはざまで
ベトナム造形美術家連盟は、その後も美術品の展示や輸出の許可を取り仕切るなど、一定の求心力を維持しますが、作家たちの活動の場は、徐々に観光客が訪れるギャラリーやベトナム美術を紹介する国際展などへ移行していきました。グエン・クアンは1989年、ハノイの「アート・ギャラリー7」で初個展を開きます。また1991年には、香港でグループ展「噴き出した情熱」に出品します。この展覧会は、ブイ・シュアン・ファイを始めとした15名の代表的なベトナム作家を、初めてまとまった形で海外へと紹介したもので、ベトナム美術への注目を集めるきっかけともなりました。これを機に、グエン・クアンは作家として参加するとともに、「噴き出した情熱」展図録にエッセイを寄稿するなど、作家/批評家としての立場を不動のものにしていきます。
この時期にはさらに、ハノイ美術大学時代の教え子であり、のちにベトナム美術史の大家となるファム・カン・チュオン(1957-)とともに、ベトナム美術を歴史的な視点から著した『ベトナム美術』(1989年)と『村の美術』(1991年)を出版します。『村の美術』では、ベトナム美術のルーツを、外国からもたらされた宗教美術や、フランスによる植民地政策のなか花開いた近代美術にみるのではなく、豊かな民族色あふれる村の居住空間に見出します。たとえば民間版画などの伝統は、社会主義共和国が樹立すると宗教や迷信との繋がりから、長らく制作が禁止されていました。このようなイデオロギー的断絶により、顧みられることのなかったベトナム美術についても、ドイモイ以後は実証的な研究が進みます。
(書籍『村の美術』1991年出版)
ホー・チ・ミンへの移住
1994年、幼少時代から過ごしてきたハノイから、ホーチミンへ移り住みます。画壇から孤立していた作者にとって、南部での制作は新たなインスピレーションを得るきっかけとなりました。
1994年、グエン・クアンは福岡市美術館で行われた「第4回アジア美術展」に出品します。アジア18カ国の現代美術を紹介した展覧会は当時としても珍しく、第4回目で初めてベトナム作家が紹介されました。グエン・クアンは作家として出品するとともに、ベトナム現代美術についてのエッセイも寄稿します。
ホーチミンでの制作において、絵画はますます抽象化され、さらにグエン・クアンは彫刻作品へも挑戦します。絵画において見られた現実空間の解体や不合理な世界の追求は、突如としてあらわれるワイヤーや棒として具現化されています。また、「シン版画」と呼ばれるベトナム中部の民間版画を、そのまま絵画の画面のなかに貼り込むなど、自身が展開してきた美術史への接近も見られます。シン版画で祀られる神話や空想上のシンボルは、現実空間から離れようとするグエン・クアン作品に、新たな展開をもたらしています。
作者は、現在もホーチミンで精力的に制作に取り組んでいます。2018年も著作の出版が予定されるなど、その類まれな才能と見識、そしてベトナム美術への熱い思いはとどまるところを知りません。
(担当学芸員 柏尾沙織)
あじび研究所I グエン・クアン≪海の印象≫
福岡アジア美術館アジアギャラリー
2018/4/19~7/10
Nguyen Quan (Vietnam, 1948-)
Impression of the Sea, 1993
oil on canvas
102×145cm
Collection of Fukuoka Asian Art Museum
本ブログでは、その時の写真やテキストを改めてご紹介します。
第1回目は、ベトナムの現代絵画≪海の印象≫です。
本作は、1994年に福岡市美術館で開催された、第4回アジア美術展に出品された3点の油彩画のうちの1点で、福岡市美術館に収蔵されたのち、福岡アジア美術館に移管されました。
海を連想させる青い背景に、黄色い雲と、80年代末から描き始めた代表的なモチーフである、「ヘッドレス・ウーマン(頭のない女性)」が描かれています。描き始めたきっかけは、満月を描いていた際に、そこに女性の顔を描き、本来の女性の顔を省いたことです。対象が解体されたり、入れ替わったりする非現実な空間は、作者の内面を解放しようとする表れです。当時、女性のヌードを描くことすら珍しかったベトナムで、このような斬新な手法が取られたのには、作者の強い思いがありました。彼の制作や絵画に対する考えについて、グエン・クアンはつぎのように語っています。
絵画は見えるものではなく、心にあるものを表現しなくてはならない。
筆を取っているとき、私は特別な直観というものを持ったことがない。私は非常に頻繁にペンやインク、鉛筆などでスケッチをするが、描くための道具として使ったことはない。私が描くときには下描きのためのスケッチは作ったことがないのだ。モチーフが私の過去の記憶からでてくるのか、それとも長きにわたって分析し、スケッチを続けている過去の主題から来ているのかを言い当てるのは難しい。
絵画は、私を引きつけ、享楽や苦痛へと私を導く。それは私が絵画を導き、それらを制作すること以上にそうなのである。一枚の絵画は人を慰め、孤独を癒してくれる風なのである。
(グエン・クアンのエッセイ「第4回アジア美術展」図録より、1994年)
女性像の周囲には、水差しや枝花、魚や紐など、まるで意識の奥からふっと湧き上がってきたかのような、象徴的なモチーフが散りばめられています。中央の祭壇に飾られた果物は、ベトナムの家庭や商店でよく見かけるものです。シュルレアリズムに影響を受けた不合理な世界のなかに、グエン・クアンならではのベトナム社会のモチーフが取り込まれます。
海を連想させる青い背景に、黄色い雲と、80年代末から描き始めた代表的なモチーフである、「ヘッドレス・ウーマン(頭のない女性)」が描かれています。描き始めたきっかけは、満月を描いていた際に、そこに女性の顔を描き、本来の女性の顔を省いたことです。対象が解体されたり、入れ替わったりする非現実な空間は、作者の内面を解放しようとする表れです。当時、女性のヌードを描くことすら珍しかったベトナムで、このような斬新な手法が取られたのには、作者の強い思いがありました。彼の制作や絵画に対する考えについて、グエン・クアンはつぎのように語っています。
絵画は見えるものではなく、心にあるものを表現しなくてはならない。
筆を取っているとき、私は特別な直観というものを持ったことがない。私は非常に頻繁にペンやインク、鉛筆などでスケッチをするが、描くための道具として使ったことはない。私が描くときには下描きのためのスケッチは作ったことがないのだ。モチーフが私の過去の記憶からでてくるのか、それとも長きにわたって分析し、スケッチを続けている過去の主題から来ているのかを言い当てるのは難しい。
絵画は、私を引きつけ、享楽や苦痛へと私を導く。それは私が絵画を導き、それらを制作すること以上にそうなのである。一枚の絵画は人を慰め、孤独を癒してくれる風なのである。
(グエン・クアンのエッセイ「第4回アジア美術展」図録より、1994年)
女性像の周囲には、水差しや枝花、魚や紐など、まるで意識の奥からふっと湧き上がってきたかのような、象徴的なモチーフが散りばめられています。中央の祭壇に飾られた果物は、ベトナムの家庭や商店でよく見かけるものです。シュルレアリズムに影響を受けた不合理な世界のなかに、グエン・クアンならではのベトナム社会のモチーフが取り込まれます。
グエン・クアン(ベトナム、1948-)
≪海の印象≫1993年
油彩・画布
102×145cm
福岡アジア美術館所蔵
本作は、ドイモイ(刷新)時代を代表する作品で、1993年に制作されました。ドイモイとは、1986年にベトナム共産党第6回党大会で提起されたスローガンで、社会主義国家であるベトナムに、市場原理や開放政策を導入し、経済発展を目指すものです。1975年に終結したベトナム戦争は、国土を荒廃させ、人々は貧困に苦しみましたが、ドイモイ路線では経済の立て直しに加えて、文芸界やマスコミに対する規制緩和が行われるなど、様々な自由化がはかられました。
美術の世界においても、これまで兵士や農民、労働者たちを賛美する社会主義リアリズムやプロパガンダ美術などが主流でしたが、多様なモチーフや表現が受け入れられるようになります。街には商業ギャラリーが出現し、海外での展示の機会も増えました。グエン・クアンはベトナムが復興していくなかで、新しい価値観を体現した草分け的存在であり、ベトナムの現代美術に大きな功績を残しています。
ヨーロッパへの留学
グエン・クアンは、1948年ハノイの北西に位置するフート省に生まれます。先祖は代々、ハタイ省の儒学者の家系でした。ハイフォン市とハノイ市で学生時代を過ごすかたわら、美術へ関心を持った青年は、高名な画家ナム・ソン(1890-1973)から絵画の手ほどきを受けます。しかし、1960年代になりベトナム戦争が激しさを増すと、軍の高官の子息であったグエン・クアンは、東ドイツへと留学します。1971年に卒業したメルゼブルク大学では、数学と人工頭脳学を専攻しますが、留学中も美術への関心はうすれず、西洋の名画に触れつつ、絵を描き続けました。
ハノイ美術大学で教鞭をとる
帰国後は、外国語学校でドイツ語を教えます。それから70年代後半になると、自身の作品をグループ展で発表するようになります。1978年、ハノイ美術大学に美術理論のコースが設けられると、グエン・クアンはほぼ独学ながら、留学の経験を活かして教鞭を取り始めます。この時期の作者は、静物画や愛国的なテーマの絵画を描いたり、家族や愛を主題に制作していました。私生活でも結婚し2人の子供をもうけます。
当館所蔵の≪西湖≫(1982年)が描かれたのもこの頃で、舞台となったハノイ中心部に位置する西湖は、恋人たちの憩いの場としても知られています。絵のなかには、赤いシャツの女性が、まるで昔を回想するかのように、小径を走る自転車を眺めています。大きくたなびく雲は、まるで生き物のように空を覆い、湖は思い出を飲み込むかのように隆起して見えます。想像を交えた色使いには、ポスト印象主義(注1)や表現主義などの影響がうかがえます。留学時代の習作においては、雲や小径が、さらに現実とはかけ離れた荒々しいタッチと色で描かれています。
(注1)1880年代から1890年代初頭にかけて、印象派の柔らかな色彩や形態に満足しなかった作家らにより、鮮やかな色彩や明確な輪郭線を用いながらより感情や観念にそくした表現が追求された。代表的な作家にゴッホやゴーガンがおり、ポスト印象主義という言葉は、彼らの死後批評家のロジャー・フライによって付けられた。
≪西湖≫1982年
評論家としての活動
80年代後半になると、グエン・クアンはいくつかの重要なポストに就任します。1984年から89年にかけて、ベトナム造形美術家連盟の事務局長をつとめます。86年からは、この連盟が発行する批評誌の編集長を務め、出版元である文化省の美術出版社の副代表も兼任します。連盟の若返りをかけて選出されたグエン・クアンは、このとき30代半ばでした。彼は、プラハで美術史を学んだタイ・バー・ヴァンを執筆者として起用し、ピカソやゴッホ、ダリやマグリットなど西洋の美術動向を積極的に紹介します。また美術大学の学生に、仲間の展覧会評を書かせるなど、雑誌を意見交換の場として活用します。さらに1986年には、美術作家約30名を集めてハノイ郊外でワークショップを開催します。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンらが行ったワークショップに想を得たもので、3週間に渡るプログラムを通して、共同体にしばられない個人の表現が追求されました。
この時期のグエン・クアンは、翻訳や文学本の編集を手掛けつつ、『ラファエロ』、『ベトナム現代造形美術』、『形と色について』といった3冊の美術本を執筆するなど、マルチな才能を開花させていきます。しかしながら、彼のベトナム美術における「ドイモイ(刷新)」活動は、古参の連盟作家や文化省から、必ずしも歓迎された訳ではありませんでした。ベトナム美術の動向ではなく、海外の美術に重きを置くことに不満を持った人々によって、1989年、グエン・クアンは編集長のポストから外されることになります。その後は、ハノイ画壇からやや距離を置き、自身の制作に没頭していきますが、グエン・クアンのもたらした新たな風は、ベトナムの若い作家たちへと受け継がれていきます。
孤独と飛躍のはざまで
ベトナム造形美術家連盟は、その後も美術品の展示や輸出の許可を取り仕切るなど、一定の求心力を維持しますが、作家たちの活動の場は、徐々に観光客が訪れるギャラリーやベトナム美術を紹介する国際展などへ移行していきました。グエン・クアンは1989年、ハノイの「アート・ギャラリー7」で初個展を開きます。また1991年には、香港でグループ展「噴き出した情熱」に出品します。この展覧会は、ブイ・シュアン・ファイを始めとした15名の代表的なベトナム作家を、初めてまとまった形で海外へと紹介したもので、ベトナム美術への注目を集めるきっかけともなりました。これを機に、グエン・クアンは作家として参加するとともに、「噴き出した情熱」展図録にエッセイを寄稿するなど、作家/批評家としての立場を不動のものにしていきます。
この時期にはさらに、ハノイ美術大学時代の教え子であり、のちにベトナム美術史の大家となるファム・カン・チュオン(1957-)とともに、ベトナム美術を歴史的な視点から著した『ベトナム美術』(1989年)と『村の美術』(1991年)を出版します。『村の美術』では、ベトナム美術のルーツを、外国からもたらされた宗教美術や、フランスによる植民地政策のなか花開いた近代美術にみるのではなく、豊かな民族色あふれる村の居住空間に見出します。たとえば民間版画などの伝統は、社会主義共和国が樹立すると宗教や迷信との繋がりから、長らく制作が禁止されていました。このようなイデオロギー的断絶により、顧みられることのなかったベトナム美術についても、ドイモイ以後は実証的な研究が進みます。
(書籍『村の美術』1991年出版)
ホー・チ・ミンへの移住
1994年、幼少時代から過ごしてきたハノイから、ホーチミンへ移り住みます。画壇から孤立していた作者にとって、南部での制作は新たなインスピレーションを得るきっかけとなりました。
1994年、グエン・クアンは福岡市美術館で行われた「第4回アジア美術展」に出品します。アジア18カ国の現代美術を紹介した展覧会は当時としても珍しく、第4回目で初めてベトナム作家が紹介されました。グエン・クアンは作家として出品するとともに、ベトナム現代美術についてのエッセイも寄稿します。
ホーチミンでの制作において、絵画はますます抽象化され、さらにグエン・クアンは彫刻作品へも挑戦します。絵画において見られた現実空間の解体や不合理な世界の追求は、突如としてあらわれるワイヤーや棒として具現化されています。また、「シン版画」と呼ばれるベトナム中部の民間版画を、そのまま絵画の画面のなかに貼り込むなど、自身が展開してきた美術史への接近も見られます。シン版画で祀られる神話や空想上のシンボルは、現実空間から離れようとするグエン・クアン作品に、新たな展開をもたらしています。
作者は、現在もホーチミンで精力的に制作に取り組んでいます。2018年も著作の出版が予定されるなど、その類まれな才能と見識、そしてベトナム美術への熱い思いはとどまるところを知りません。
(担当学芸員 柏尾沙織)
あじび研究所I グエン・クアン≪海の印象≫
福岡アジア美術館アジアギャラリー
2018/4/19~7/10
Nguyen Quan (Vietnam, 1948-)
Impression of the Sea, 1993
oil on canvas
102×145cm
Collection of Fukuoka Asian Art Museum