2019年3月26日火曜日

緊急告知!リナさんと話そう!カンボジア料理のつどい


リナさんと話そう!カンボジア料理のつどい
現在、福岡アジア美術館に滞在中のカンボジア出身のアーティスト、リム・ソクチャンリナ(通称リナ)さんが、作品制作のためのリサーチの一環として、カンボジア料理を食べながらのお話し会を開催します。
リナさんがこれまで制作してきた作品のお話や、福岡市内でカンボジア料理店を経営する池田スロスさんのお料理のお話など、スロスさんのお料理を食べながら、カンボジアについて語りあいませんか。


日  時:3月31日(日)12:00~14:00
場  所:福岡アジア美術館 7階 アートカフェ
参 加 費:1,000円 
       *カンボジア料理のランチセットを提供します。
定  員:15名(要申込、先着順)
申込方法:お名前、ご連絡先を明記の上、Email(faam@faam.ajibi.jp)
       かFAX(092-263-1105)でお申込みください。
       *定員に達しなかった場合、また当日キャンセルがでた
         場合は、当日の申し込みも受け付けます。


講師紹介:
◎リム・ソクチャンリナ/Lim Sochanlina
1987年プノンペン生まれ、在住。2017 年の「サンシャワー」展では、国道沿いの真っ二つにされた民家の写真で注目されたカンボジアの社会派アーティスト。福岡では新たな作品制作のために、福岡で働くカンボジア人労働者を取材する。[滞在期間:3/1~4/1]

◎池田スロス
1980年カンボジア・シェムリアップ生まれ、福岡市在住。2003年に来日し、2010年より福岡でカンボジア料理店「シェムリアップ」をはじめる。現在、博多区吉塚の元銭湯の場所で営業中。日本カンボジア連合協会代表。


問い合わせ:
福岡アジア美術館 交流係(山木、蒲池)
福岡市博多区下川端町3-1リバレインセンタービル7・8階
TEL:092-263-103 FAX:092-263-1105
E-mail:faam@faam.ajibi.jp

http://faam.city.fukuoka.lg.jp/event/detail/760

 
 

2019年3月19日火曜日

リー・ウェンよ永遠に 個人的な、しかしたぶん他の誰かにも共有される思い出(4・最終回)


 アジ美での直近かつ最後のリー・ウェンの発表は、2017年アジ美で開かれた「サンシャワー 東南アジア現代美術展1980年代現在」(アジ美)です。同展に立体と写真作品を出品した彼は、1980年代以後の東南アジア美術の新時代を築いた作家のひとりであり、第4回アジア美術展やそれ以後の福岡の作家との交流からも、ぜひリー・ウェンを招きたいということになり、開会式、ギャラリートーク(ほかシンポジウムでも発言)に参加してもらいました。
 2017112日 サンシャワー展開会式(アジ美)
2017113日 サンシャワー展ギャラリートーク(アジ美)

トーク自体もパフォーマンス的でしたが、それに続いてパフォーマンスをすることは告知されていませんでした。しかし空間、タイミングを絶妙に利用し、観衆、個人的・仕事上の関係者を巧みに巻き込んで、発言と行動の束縛からの脱出を求める見事なパフォーマンスでした。

2017113日 トークに続くパフォーマンス(アジ美)

 2017113日 シンポジウムで発言(アジ美)

 去る日曜(3/17)にはシンガポールでリー・ウェン追悼集会が開かれました。
リンクのビデオで1時間5分くらいから、日本の三者(アジ美、アーティストの武谷大介さん、日本国際パフォーマンスアートフェスティバル=NIPAFの霜田誠二さん)からのメッセージを、国立ギャラリーの堀川理沙さんが代読しているのを見ることがきます。霜田さんがよせたメッセージ(長い…)で、彼が1995年のNIPAFに招待する東南アジア作家をらーさん(当時福岡市美術館)に照会、らーさんはそのときに東京にいたタン・ダウを紹介、しかし霜田さんに会ったダウは、自分はもう日本に何回も来ているからということで若手作家として紹介されたのがリー・ウェンだったことがわかります(らーさんは覚えてませんでした)。ちなみにこのNIPAFでのリー・ウェンのパフォーマンス「ゴーストストーリー」はらーさんも見に行ってます。写真記録が手元になく確認できませんが、骸骨のような不気味なペイントをしたものだったと思います。いっしょに見ていた藤浩志さんが「リー・ウェン、なんかかわいかったですね」と言ったことだけ妙に覚えているそうです。

 霜田さんも上記メッセージでふれてますが、このブログでリー・ウェンをアジア美術の「英雄時代」を築いたひとりと書きました。この言葉が適切かどうかわかりませんが、1990年代前半は、80年代後半に中国や東南アジア各地で、「西洋の様式とアジアの題材・伝統」という折衷的モダニズムを乗り越える地殻変動が美術に起こり、シンガポールではタン・ダウ、リー・ウェン、アマンダ・ヘン、インドネシアでヘリ・ドノ、ダダン・クリスタント、タイでモンティエン・ブンマー、ナウィン・ラワンチャイクン、チャーチャーイ・プイピア、マレーシアでタン・チンクアン、ウォン・ホイチョンが国際交流基金(美術前線北上中 東南アジアのニューアート、1992年)や福岡市美術館(第4回アジア美術展、1994年)などで紹介されていった時代です。(ちなみにこのふたつの展覧会の間には、ミュージアム・シティ・プロジェクトと三菱地所アルティアムによる「非常口 中国前衛美術家展」という、アジア現代美術の概念を決定的に変えてしまった驚異的な展覧会が福岡で開かれています。)これらの新傾向は、大掛かりなインスタレーション(およびパフォーマンス)+政治社会的テーマ+民族的伝統の結合による、今の目で見ればかなり粗削りであったものの、国際展への機会もマーケットも行政機関や企業からのコミッションもない時代(自由な表現が許されないところを含む)に、「受け手/観客」が未成熟な時代に、とにかくやりたいことにチャレンジする内発的実験精神(らーさんがよく使う谷川雁のいう「初発のエネルギィ」)を爆発させていき、それが各作家個人のみならずアジア美術の国際的な認知につながったことにおいて「英雄的」であったのです。
 この時代に国際舞台に乗り出した作家たちのなかには、絶えず作品を進化・発展・成熟させていった作家たちだけでなく、今や制作をやめてしまったり、美術市場向けのブランド作品を繰り返したり、国際展や行政機関や美術館からの期待を満たすだけの作品を作っている作家もいるでしょう。しかし、先にふれたように、リー・ウェンは国内外から高い評価を受けるようになっても、造形作家(身体や空間利用を含む)としての作り込み、言葉による思考、人間の自由を束縛する制度への問いかけ、国内の若手支援や国際的なネットワークやアーカイブによる共有・連帯や歴史的継承の使命を最後まで貫いた作家だと思います。思想と行動の両面での一貫性と、このような使命感ゆえにこそ、リー・ウェンは「あの(英雄)時代」だけでなく、今日、そして未来にも、もはや「英雄」としてでなく、ひとりのアーティストとして生き続けることでしょう。
 と、らーさんが言ってます。(ししお)

2019年3月14日木曜日

リー・ウェンよ永遠に   個人的な、しかしたぶん他の誰かにも共有される思い出(3)


1995年の後もリー・ウェンと藤浩志の日本での交流は続き、高松の画廊でいっしょに発表した展覧会?に私も行ったのですが、彼らの作品の記憶はなく、その記録は手元にありません。
またニロファール・アクムットとの出会いから、1996年に彼女がパキスタンのラホール美術大学で開いたワークショップにも、リーと藤は参加しています。この写真は、このワークショップに参加したドイツのアーティスト、Renate Kochさんが撮影したものです。
photo courtesy: Renate Koch, Karlsruhe, Germany

オブジェを入れた籠と紙を手に持って、何かの文章を読んでいたようです。彼に従う男性は口をテープでふさがれています。言論の自由に関するパフォーマンスでしょうか。

 1999年9月には、第3回アジア太平洋トリエンナーレ(ブリスベーン)のレセプション会場?で、全身を真っ黒に塗って横たわっています。まるで死体のようで正視できなかった記憶があります。アジアのアートがオーストラリアで「国際的」に紹介(消費?)されることへの違和感を表明したのでしょうか? 

 翌2000年3月、アジ美は開館一周年記念イベント、アジア楽市楽座に、他のシンガポール作家とともにリー・ウェンを招待しました。 

リーのパフォーマンスのひとつは、川端商店街の路上で大きな紙を広げ、「アートに何ができますか What can art do」という問いに観客・通行人に答えを書かせるものです(この紙は今どうなったんだろう…)。
また観客・通行人にチューインガムを噛んでもらい(シンガポールでのチューインガム禁止への批判か)、それを集めて、アジ美一歳のバースデーを祝うケーキ(?)を作り、3本のローソクを立てて吹き消しています。 (つづく)

2019年3月11日月曜日

リー・ウェンよ永遠に 個人的な、しかしたぶん他の誰かにも共有される思い出(2)


間があいてしまいそうこうしているうちにまた追悼文がネットに出ました。

今や「レガシー」として記憶される1994年・福岡のことはすでにこのブログ(「あのときのリー・ウェンから思うこと(また改訂)」、2017年11月14)で書き、また平成の福岡美術を回顧する新聞記事(ARTNEにも掲載)でもふれられているので繰り返しません。


4回アジア美術展で5日にわたって続けられた「イエローマンの旅 自由への指標」をずっと見ていたわけではありませんが、黙々と床にお米で地図や文字や記号を描き続けることで世界の富や食料の不均衡な分配について沈思し(このテーマは当時の藤浩志にも見られるもので、第4回アジア美術展で出会ったふたりが意気投合したのもそのためでしょう)、都市空間のなかでの「異物」としての自分をさらけ出しつつ、籠に入った羽のオブジェで、「自由」のわずかな可能性を探求。5日目には空っぽの茶碗からご飯を食べる仕草と声にならない苦しみの表現に涙を流す人もいました。リー・ウェンによるおそらくすべてのパフォーマンスにいえることですが、場とタイミングを巧妙に利用しつつもその表現が強烈な印象を与えるのは、時空間への才気ある介入方法と、自虐的ユーモアをはらみながらも身を危険にさらす真剣さ、そして孤独や痛ましさを乗り越える希望を捨てない強靭な意志よるのです。ちなみにリー・ウェンの父親は文筆家で詩人。このときの作品にも、リーによる長い文章がつけられていますし、前述の論文ほか多くの文章を残しています(作家およびAAAのサイトでリンク)。ときにはグロテスクなまでに物質性を露出するパフォーマンスを支えているのは言語に鍛えられた彼の思考なのです。
1995年のこの写真は、第4回アジア美術展が世田谷美術館に巡回したとき。写真右はパキスタン出身のニロファール・アクムット、左は今やアジア現代美術の大スターとなった説明無用のナウィン・ラワンチャイクン(24歳! 当時の表記は「ナヴィン・ラワンチャイクル」)といっしょにファミレスで食事をしたときのリー・ウェン。シャッターを押したのが藤浩志だったことが別ショットでわかります。藤さんの車で移動していたのですがもし事故っていたらアジア美術史の巨大な損失だったでしょう。(つづく)

2019年3月6日水曜日

リー・ウェンよ永遠に  個人的な、しかしたぶん他の誰かにも共有される思い出(1)


2000年3月、アジ美とその周辺で開かれたアジア楽市楽座でのリー・ウェン(筆者撮影)


33日、リー・ウェンが、シンガポールの病院で家族や美術仲間に看取られながら亡くなりました。
リー・ウェンは、1988年にタン・ダウが創始したアーティスト・ヴィレッジに参加、日本を含む世界各地でパフォーマンスにより注目を集め、2005年にはシンガポール政府から文化勲章を受章、2012年にはシンガポール美術館で回顧展が開かれるなど、アーティストとしては国内外から非常に高い評価を受けた作家です。
リー・ウェンの活動については既に多くのことが語られ論じられてきましたが、クイーンズランド美術館ブログにはインタビュー映像もあり簡単に彼の芸術活動の概略を知ることができます。
出世作といえる「イエローマン」にとどまらない多彩な表現、2003年からの「想像力の未来Future of Imagination」というフェスティバルの企画、後進の育成、パフォーマンス研究(2006年に「PerformanceArt in Context: A Singaporean Perspective」という論文をLaSalle-SIA美術学校に提出しています)、Independent Archiveの開設などは、作家ウェブサイトで見ることができますが、その全体像を紹介するのは容易なことではありません(英語だし)。
なので(久々のブログなんですが)、アジ美に残る写真をひっぱりだし、私の個人的な思いを書かせていただくことで、パーキンソン氏病を患いながらも最後まで自分の表現と芸術の発展のために人生を捧げたこの「偉大な」アーティスト――私はあえて「アジア美術の英雄時代」を築いたひとりと言いたい――へのオマージュと追悼とさせていただきます。(つづく)
と、黒田部長が言ってます。(ししお)