スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2019の投稿を表示しています

呉天章はなぜ『快楽的出帆』を使ったのか

1 産業構造の変化のなかで移動する少女たち 前のブログ記事 (10 月28 日 ) で書いたように、 『快楽的出帆』は近年まで多くの女性歌手にカバーされカラオケにもなっていますが、それは 1958 年・台湾という時代・地域を思い出させる曲でもあります。この時代には、台湾社会は農業社会から工業社会へという大きな変化を迎えており、農村の女性が都会へと工場などの仕事を求めて移動していきました(そういう画題は 1980 年代韓国の「 民衆美術 」にもしばしば登場します)。 曾根史郎の歌った 吉川静夫による歌詞 は、男性が友人や妹と別れて海の向こうのどこかに働きに行く歌詞でしたが、 蜚声による翻案歌詞 では、若い女性が父母と離れてどこかに希望をもって旅立つ内容になっています。このような時代を代表する女性像が 歌われているから 呉天章は こ の歌を 使ったといえます 。 2 白色テロ時代の慰安としての日本演歌 1950 年代以後の台湾国民党政府は大陸への「反攻」を希求し、冷戦構造ではアメリカ陣営の一翼を担いながら、一種の鎖国状態にありました。 『快楽的出帆』の 11 年前である 1947 年に起こった 「 228 事件 」(「 闇に刻む光 」で展示された黄栄燦作品を参照)は、国民党政府による「白色恐怖(テロ)」の時代につながり、共産主義者またはその疑いがもたれる者への弾圧だけでなく、文化においても、社会の暗黒面・陰惨さを示す表現、性的表現などもきびしく規制されました。 そのような文化的鎖国と国内政治・文化の過酷な統制のなかで、台湾民衆に楽しみや慰安を提供したのは日本の歌謡曲、特に演歌でした。 1950 - 70 年代には日本演歌が人気を博し、特に船員や、1で述べた地方から都会の工場に働きに来た女性の心情を歌った曲が好まれました。当時の工員は工場でラジオの歌謡曲を聞きながら働いていたのです。 ちなみに作者の 呉天章は 1956 年生まれなので 『快楽的出帆』発売のときはまだ二歳でした。にもかかわらず彼はこの歌の記憶を鮮明にもっているそうです。この歌がスタンダード曲として長く愛されてきたからかもしれませんが、作者がまさに「出帆」する場所、港町である基隆の生まれであったからでもありました。 3 写真館の夢と幻滅 日本を含むアジア各地では卒業式や

呉天章《春宵夢Ⅳ》の歌を調べてみた

10 月 25 日のFB投稿 でお知らせした、 ARTNE の記事 に出てくる呉天章作品に使われた音楽について、ウィキペディアや中国語検索サイト「 百度 」検索などで調べてみました。 歌手名・タイトルから動画にリンクしてます。 ① 原曲  曾根史郎(朗)『初めての出航』   富田一雄作曲 吉川静夫作詞  1958 年 なんと男性による歌唱でした。 曾根史郎= 1930 年生まれ。ポリドールからデビュー、のちビクターレコードに移籍。 1956 年、『若いお巡りさん』が歴史的な大ヒット。同年、同曲で NHK 紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には 4 回連続出場。『初めての出航』は 1958 年の第 9 回紅白歌合戦で歌われた。 2008 年、第 50 回日本レコード大賞で功労賞を受賞。(ウィキペディアより)  ② 作品に使われた 陳芬蘭 ( 陈 芬 兰 ) 『快楽的出帆』 (快樂的出帆/ 快 乐 的出帆)   1958 年 台湾の陳 坤岳(筆名・蜚声)が台湾語 ( 閩南語 ) に訳すが、原曲歌詞の「かもめ」のみ「卡膜咩」と音訳する。姪の陳芬蘭(当時 10 歳)に歌わせて人気曲となる。台湾らしい海の題材と明るく活気のあるメロディーにより 多くの女性歌手にも歌われた。 陳芬蘭( 陈 芬 兰 ) = 1948 年生まれ 中国語、台湾語の歌の歌手。「台湾の美空ひばり」と言われる。 8 歳でデビュー、 14 歳で台湾人歌手として初めて日本の歌謡界に登場。《月亮代表我的心》のほか ) 『快楽的出帆』でも知られる。 ③ 蔡秋 鳳( 蔡秋 凤 ) 『快樂的出帆』 テレビ映像 テンポがはやい! (注 元のアップテンポの映像リンク切れて別のリンクです、そんなにはやくないか) ④ 鄧麗君 ( 邓丽 君) 『快樂的出帆』 ハワイアン風?の変な編曲と時代を感じさせるカラオケ映像。かなりイマイチな俳優さんたちですが(笑)、 歌っているのはなんとゴージャスにも 鄧麗君=テレサ・テン です!   さすが声が可憐で美しい!   なのにこの映像!(笑) ⑤ 楊凱 琪( 杨凯 琪)『快樂的出帆』 ゴージャスさをかんちがいしてます!!  原曲の雰囲気台無し (笑)!!! ところで 「じゃあなぜ 呉天章 はこの曲を使ったんだ?」

追悼:ホアン・ヨンピン

FT4 出品の中国作家ホアン・ヨンピン氏が亡くなりました。 Huang Yong Ping, Provocateur Artist Artnews: Who Pushed Chinese Art in New Directions, Has Died at 65 中国当代艺术最重要一员黄永砯逝世 享年65岁 中国美術、いやアジア美術の潜在力を世界に知らしめた功績は不滅です。 権威化された美術、植民地主義、商業主義など、あらゆるものへの批判精神を貫いた真に偉大なアーティストの冥福を祈ります。 らーさんの ホアン 作品との出会いは 1991年のミュージアム・シティ・プロジェクトと三菱地所アルティアムによる「非常口 中国前衛美術家展」でした。 そのときの ホアン氏 の若々しい姿は 現在開催中の 「アジア美術、 100 年の旅」 で見せている蔡國強の記録映像のなかでちょっとだけ見ることができます。蔡氏の火薬ドローイングの制作を手伝っている小柄な眼鏡をかけた人が黄氏です。 そのあとらーさんは1993年の欧米のアジア作家調査の間に ベルリン「世界文化の家」で開かれた中国現代美術展(リンクドイツ語のみ) で、新聞紙をぐちゃぐちゃにしたものを天井の高い大きな空間の柱にはりつけた黄氏の作品を見て、再び衝撃を受けました。 「世界文化の家」(ベルリン)での展示(1993年) 撮影:らーさん 「非常口」の屋内・野外作品と同様、あらゆる固定観念・概念を無化してしまい、かつ空間への攻撃力をもつ作品は素材のインパクトとともに様々な思考を誘発します。 生きたサソリや蛇を使った作品や、中国・フランス・アメリカの国際関係に介入したような彼の作品はしばしば物議をかもしました。そこにあるのは、いかに高度な文明と技術を誇ってもしょせん弱肉強食や盛者必衰という自然界のサイクルから逃れられない人間の運命への洞察でした。しかも、激辛の批評性の裏に、想像力をはばたかせる遊戯性を失うことなく。 ホアンの作品は 空間的インパクトと暴力性をはらみつつも、 彼を世界の舞台に押し上げたの その底にある透徹した思考と妥協なき批評性なのです。若手作家の挑戦もあっという間にビジネスにとりこんでしまうことで作家を骨抜きにする美術市場、集客用スペクタクル志向に慣れっこになった お