2019年10月31日木曜日

呉天章はなぜ『快楽的出帆』を使ったのか


1 産業構造の変化のなかで移動する少女たち
前のブログ記事(10月28で書いたように、『快楽的出帆』は近年まで多くの女性歌手にカバーされカラオケにもなっていますが、それは1958年・台湾という時代・地域を思い出させる曲でもあります。この時代には、台湾社会は農業社会から工業社会へという大きな変化を迎えており、農村の女性が都会へと工場などの仕事を求めて移動していきました(そういう画題は1980年代韓国の「民衆美術」にもしばしば登場します)。曾根史郎の歌った吉川静夫による歌詞は、男性が友人や妹と別れて海の向こうのどこかに働きに行く歌詞でしたが、蜚声による翻案歌詞では、若い女性が父母と離れてどこかに希望をもって旅立つ内容になっています。このような時代を代表する女性像が歌われているから呉天章はの歌を使ったといえます

2 白色テロ時代の慰安としての日本演歌
1950年代以後の台湾国民党政府は大陸への「反攻」を希求し、冷戦構造ではアメリカ陣営の一翼を担いながら、一種の鎖国状態にありました。『快楽的出帆』の11年前である1947年に起こった228事件」(「闇に刻む光」で展示された黄栄燦作品を参照)は、国民党政府による「白色恐怖(テロ)」の時代につながり、共産主義者またはその疑いがもたれる者への弾圧だけでなく、文化においても、社会の暗黒面・陰惨さを示す表現、性的表現などもきびしく規制されました。
そのような文化的鎖国と国内政治・文化の過酷な統制のなかで、台湾民衆に楽しみや慰安を提供したのは日本の歌謡曲、特に演歌でした。195070年代には日本演歌が人気を博し、特に船員や、1で述べた地方から都会の工場に働きに来た女性の心情を歌った曲が好まれました。当時の工員は工場でラジオの歌謡曲を聞きながら働いていたのです。
ちなみに作者の呉天章は1956年生まれなので『快楽的出帆』発売のときはまだ二歳でした。にもかかわらず彼はこの歌の記憶を鮮明にもっているそうです。この歌がスタンダード曲として長く愛されてきたからかもしれませんが、作者がまさに「出帆」する場所、港町である基隆の生まれであったからでもありました。

3 写真館の夢と幻滅
日本を含むアジア各地では卒業式や結婚式などの人生の節目で着飾って既存の風景画の前で記念写真を撮る習慣がありました。第2回福岡トリエンナーレ(2002年)で展示されたインドのサティッシュ・シャルマの観衆参加作品、サンシャワー展2017年)での写真館での記念写真を集積したマレーシアのイー・イラン作品を思い出してもいいでしょう。しかし写真館に用意された背景画は、普通の人々が行ってみたい美しい自然や豪華なホテルなどであり、しばしば写された人々のあまりに普通の恰好や現実生活とのギャップを露呈してしまいます。特に呉天章は、元にした写真よりも少女をよりリアルな外見に変えることで、現実と夢の落差を強調しています。
作者によれば題名の「春」は性を連想させ、「春宵」は新婚初夜を示します。少女の性を強調する胸に手をあてるポーズは、前述のような厳しい文化統制のなかでは公然と表現されるものではなく(作者は当時の保守的なサロン写真への揶揄もこめているそうです)、抑圧された性的欲求を垣間見せたものといえます。しかしそれは欲望の解放を讃えるものではありません。全然似合ってない安っぽい装飾のサングラス、額縁のチープな装飾を強調する照明、そして性的なジェスチャーは、華やか・晴れやかで希望に満ちた曲があらわす、新時代を積極的に生きようとする健康的な女性イメージの虚構性を暴き出してしまいます。「船出」の少女らしい純朴な希望を裏切って、都会では過酷な労働やあやしげな商売などの運命が女性を待ち受けているのでしょうか。
そのような暗示は、4点のシリーズである《春宵夢》の他作品との比較からわかります。シリーズIIII120x80cmの比較的小品であり、どちらもサングラスでなく蝶型の仮面で目を隠した派手な柄の旗袍(チーパオ)を着た女性の座像です。それに対し、装飾つきサングラスをかけて胸に手をあてたポーズ、幼さを残す少女と地味な服装の全身像、大きなサイズと変化する照明でアジ美所蔵のⅣに近いのは《春宵夢II》(台中の国立台湾美術館所蔵)です。この4点を総覧すれば、IIとⅣの純朴そうな少女が、妖艶さとけばけばしさで男性を引き付けるIIIIの女性像に変化する可能性をはらんでいることが推測されるのです。

4 「南の島」「南洋」はどこか?
女性歌手に歌われる『快楽的出帆』の主体を女性とすれば、彼女はどこに向けて船出するのでしょう? 日本の原曲歌詞は「常夏」「みどりの島々」「パパイヤ香る南の島」、台湾版で「迷人的南洋」「木瓜花香味」と、「南の島」が「南洋」になったものの、行先のイメージは共通しています。日本での「南洋」とは、東南アジアのほか、戦時中の委任統治領であり沖縄から多くの移民が渡ったミクロネシア(サイパン、パラオなど)を意味しますが、1958年の日本で「「パパイヤ香る南の島」がどこであったのかはわかりません。また《春宵夢》シリーズの4作のどれにも、そのような「南洋」を示す風景は描かれていません。たとえば《春宵夢I》の背景は明らかに台湾左営の春秋閣ですし、作者によれば、他に台中公園や日本の富士山も写真館で人気の背景だったそうです。つまり、『快楽的出帆』における「南洋」が日本語歌詞の置き換えにすぎず特定の場所を示すものでなかったとすれば、《春宵夢IV》においては、鎖国状態と政治的・文化的な暗黒期にあった現在地から脱出する「出発(出航、出帆)」自体が希求されたのであって、そこに隠蔽(抑圧?)されたのは、どこに行くのかわからない恐怖、行き場のない不安なのかもしれません
(ししお)


2019年10月28日月曜日

呉天章《春宵夢Ⅳ》の歌を調べてみた

1025日のFB投稿でお知らせした、ARTNEの記事に出てくる呉天章作品に使われた音楽について、ウィキペディアや中国語検索サイト「百度」検索などで調べてみました。
歌手名・タイトルから動画にリンクしてます。

原曲 曾根史郎(朗)『初めての出航』 富田一雄作曲 吉川静夫作詞 1958
なんと男性による歌唱でした。
曾根史郎=1930年生まれ。ポリドールからデビュー、のちビクターレコードに移籍。1956年、『若いお巡りさん』が歴史的な大ヒット。同年、同曲でNHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には4回連続出場。『初めての出航』は1958年の第9回紅白歌合戦で歌われた。2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。(ウィキペディアより) 

作品に使われた陳芬蘭『快楽的出帆』(快樂的出帆/的出帆) 1958
台湾の陳坤岳(筆名・蜚声)が台湾語閩南語に訳すが、原曲歌詞の「かもめ」のみ「卡膜咩」と音訳する。姪の陳芬蘭(当時10歳)に歌わせて人気曲となる。台湾らしい海の題材と明るく活気のあるメロディーにより多くの女性歌手にも歌われた。
陳芬蘭(1948年生まれ 中国語、台湾語の歌の歌手。「台湾の美空ひばり」と言われる。8歳でデビュー、14歳で台湾人歌手として初めて日本の歌謡界に登場。《月亮代表我的心》のほか『快楽的出帆』でも知られる。

テレビ映像 テンポがはやい!

ハワイアン風?の変な編曲と時代を感じさせるカラオケ映像。かなりイマイチな俳優さんたちですが(笑)、歌っているのはなんとゴージャスにも鄧麗君=テレサ・テンです! さすが声が可憐で美しい! なのにこの映像!(笑)

ゴージャスさをかんちがいしてます!! 
原曲の雰囲気台無し(笑)!!!

ところで
「じゃあなぜ呉天章はこの曲を使ったんだ?」 
……えー、それはまたあとで。

(ししお)

2019年10月21日月曜日

追悼:ホアン・ヨンピン


中国美術、いやアジア美術の潜在力を世界に知らしめた功績は不滅です。
権威化された美術、植民地主義、商業主義など、あらゆるものへの批判精神を貫いた真に偉大なアーティストの冥福を祈ります。

らーさんのホアン作品との出会いは1991年のミュージアム・シティ・プロジェクトと三菱地所アルティアムによる「非常口 中国前衛美術家展」でした。そのときのホアン氏の若々しい姿は現在開催中の「アジア美術、100年の旅」で見せている蔡國強の記録映像のなかでちょっとだけ見ることができます。蔡氏の火薬ドローイングの制作を手伝っている小柄な眼鏡をかけた人が黄氏です。

そのあとらーさんは1993年の欧米のアジア作家調査の間にベルリン「世界文化の家」で開かれた中国現代美術展(リンクドイツ語のみ)で、新聞紙をぐちゃぐちゃにしたものを天井の高い大きな空間の柱にはりつけた黄氏の作品を見て、再び衝撃を受けました。
「世界文化の家」(ベルリン)での展示(1993年) 撮影:らーさん

「非常口」の屋内・野外作品と同様、あらゆる固定観念・概念を無化してしまい、かつ空間への攻撃力をもつ作品は素材のインパクトとともに様々な思考を誘発します。
生きたサソリや蛇を使った作品や、中国・フランス・アメリカの国際関係に介入したような彼の作品はしばしば物議をかもしました。そこにあるのは、いかに高度な文明と技術を誇ってもしょせん弱肉強食や盛者必衰という自然界のサイクルから逃れられない人間の運命への洞察でした。しかも、激辛の批評性の裏に、想像力をはばたかせる遊戯性を失うことなく。

ホアンの作品は空間的インパクトと暴力性をはらみつつも、彼を世界の舞台に押し上げたのその底にある透徹した思考と妥協なき批評性なのです。若手作家の挑戦もあっという間にビジネスにとりこんでしまうことで作家を骨抜きにする美術市場、集客用スペクタクル志向に慣れっこになったお祭り的な芸術祭がはびこる現在、ホアン・ヨンピンはそれらを巧みに利用しながらも、その生の最後まで孤高のアーティストであり続けたことに改めて驚きと敬意を感じずにはおられません。(ししお)

2014年9月5日、第4回福岡トリエンナーレ(FT4)でトーク中のホアン・ヨンピン
Huang Yong Ping talking at the 4th Fukuoka Asian Art Triennale, 5 September 2009

FT4のホアン・ヨンピン作品「ニシキヘビの尾」(2000年)展示風景
Huang's work at 4th Fukuoka Asian Art Triennale, 2009
Python's Tail, 2000, collection of Guy and Myriam Ullens Foundation, Switzerland