現在開催中の展覧会「ヒンドゥーの神々の物語」の関連イベントとして、リトグラフのワークショップを開催しました。
リトグラフは19世紀にヨーロッパで確立された印刷術で、インドでは20世紀に入ると各地に印刷所が作られ、ラジャ・ラヴィ・ヴァルマーらに代表される作者の手による神様のイメージが全土にもたらされるようになりました。
今回のワークショップでは、リトグラフの複雑な工程をごくシンプルな形で体験しました。
福岡アジア美術館の公式ブログです。 Fukuoka Asian Art Museum is located in Fukuoka, Japan, and is the only art museum in the world that focuses on modern and contemporary Asian art. This is an official blog of the museum.
現在開催中の展覧会「ヒンドゥーの神々の物語」の関連イベントとして、リトグラフのワークショップを開催しました。
リトグラフは19世紀にヨーロッパで確立された印刷術で、インドでは20世紀に入ると各地に印刷所が作られ、ラジャ・ラヴィ・ヴァルマーらに代表される作者の手による神様のイメージが全土にもたらされるようになりました。
今回のワークショップでは、リトグラフの複雑な工程をごくシンプルな形で体験しました。
3月29日まで開催中の「ヒンドゥーの神々の物語」展にかこつけて『マハーバーラタ』について2回にわたってぐだぐだ書きましたが、同展もあと1か月ほどになりましたので、『マハーバーラタ』と並ぶインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』についてもぐだぐだ書かなければなりません。なぜ「書かなければ」?――後述のように、展示作品では『ラーマーヤナ』関係の作品のほうが『マハーバーラタ』関係よりもはるかに多いからです。
まずは『ラーマーヤナ』がどういうお話なのか紹介しましょう。『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』よりも短いだけでなく物語の構造がはるかに単純です。『マハーバーラタ』には全編を貫く絶対的な主人公がおらず多数の英雄たちが過去から現在まで長大な歴史のなかで現れては消えていくのに対し、『ラーマーヤナ』はラーマというひとりの英雄的主人公をめぐる物語で、そのストーリーもラーマの苦難と戦い、勝利まで、直線的に、比較的短い時間軸で展開します。
作者不詳《森へ追放されるラーマ》 福岡アジア美術館所蔵
しかしその間、ランカ(現スリランカ)の羅刹(ラクシャサ、悪鬼)ラーヴァナにシーターを奪われてしまいます。(下図参照 『マハーバーラタ』の英雄たちと同じようにラーマもこういう失策をするのです。鳥はシーターを救おうとしてラーヴァナに敗れた霊鳥ジャターユ。)
そこでラーマはシーターを捜索するうちに猿王スグリーヴァと出会い、スグリーヴァの依頼によってその兄ヴァーリンを倒す(それも卑劣なやり方で…)ことでスグリーヴァとその強大かつ膨大な猿軍団の協力を得ます。そのスグリーヴァの軍師が、インドだけでなくアジア各地の『ラーマーヤナ』ではおなじみの猿ハヌマーンです。猿軍団に助けられ、インド大陸からランカ島に海神の助けを借りて渡り、激しい戦闘のすえにラーヴァナの息子インドラジットら強大な戦士を次々にうち負かし、ラーマはついにシーターを救出し、14年間の追放を終えてアヨーディヤーに戻って王位につくというハッピーエンド……でも後述のように実はそうではないのです。
第一には、『ラーマーヤナ』の登場人物は、『マハーバーラタ』よりも歴史的実在性に縛られず、特にラーマとハヌマーンは、ヒンドゥーの神・女神と同等の崇拝の対象になっているからです。第二に、これは勝手な推測ですが、ハヌマーンとラーヴァナが示すような超人間的なキャラクターが活躍し、クライマックスの戦闘も、『マハーバーラタ』のクルクシェートラの戦いのようなリアリズムが通用しない、猿[2]軍団を指揮して海を渡ってランカの要塞を責めるという巨大スケールと想像力の飛翔を伴うものであり、図像(イメージ)化への欲求(それが困難なものも含め)を誘うからでしょう。その途方もなさの一例が、ハヌマーンが、戦いで傷ついたラクシュマナを救う薬草を求めて、薬がどこにあるかわからず山の頂きをまるごと持って来てしまうというエピソードです(下図参照)。そもそもハヌマーンは空を飛べるし、体の大きさを自由自在に変えられるウルトラマン(昭和世代ですみません)なのです。
このような「壮大強烈な想像力」(阿部知二)による物語ですから、アビシェーク・シンの『ラーマーヤナ3392A.D.』であれ、永井豪によるマンガ化であれ、SF仕立てにアレンジできるのです。前回のブログで『三国志』みたいに『マハーバーラタ』をマンガで読めないかと書きましたが、この永井豪版『ラーマーヤナ』=『神話大戦』はこの古典のおもしろさを手軽に味わうには悪くありません。何しろ永井は、『ハレンチ学園』から『デビルマン』『バイオレンスジャック』などの、お色気(死語)とバイオレンスに満ちたアナーキーな作品でマンガ史に残る傑作を残した人ですから。「ラーマが童顔すぎ貫禄がない」「SF的キャラやメカが安っぽい」「シーターがかわいくない」(好みによるが…)「お色気シーンが原作を逸脱している」(まあ永井豪だし…)というツッコミはご勝手に。
アビシェーク・シンによる現代のグラフィック・ノベルの絵(下図参照)でも同様ですが、上から見たらどうなっているのでしょう?(昔日本各地のホテルとかレストランにあった回転する展望台みたいになっている?)
ムケーシュ・シンの絵(下図参照)では胴体に接した首のまわりから腕のようなもので9つの頭が伸びているという工夫をしてます。これならアニメ化もフィギュア化もできますね。
しかしこのような工夫をしても、原作の文章表現による視覚化不可能な過剰さを著しく限定(矮小化)してしまうことは避けられません。後述の阿部知二版でも短縮版とはいえ二段組460ページ(1,400枚=560,000字)の長さですから、ストーリーを追うだけの訳書ではわからない変な表現を見つける楽しみもあります。たとえば、呪いで眠っているラーヴァナの弟クンパカルナを戦闘に参加させるために目覚めさせる方法=「一万頭の象が、高速度をもって彼の体躯を踏みにじった」…… いったいどんな情景なんだ! ありえねー!!!
このように「文章 text」と「図像 image」の乖離が気になるのは、私がこのたび阿部知二が英語版から編訳した『ラーマーヤナ』を読んで、物語の展開には必要のなさそうなやたらに長いセリフ、これでもかこれでもかと比喩が連なる美辞麗句にあふれていることがわかったからです。だいぶ昔に初めて読んだのは、『マハーバーラタ』と同じレグルス文庫[3]でしたが、そこでは『ラーマーヤナ』の比較的単純な筋を手軽にたどることができても、この古典を深く味わうには不十分だったのです。なぜ阿部知二版にしたかというのは簡単な理由で、近年の縮約版(中村了昭や池田運による全訳は読むの大変すぎ…)のうち、1冊になっていて、かつ原作に近いディテールが読めるのは河出書房新社の世界文学全集版だけだったからです。
1959~66年に刊行されたこの全集100巻のうちアジア文学は、中国の古典『紅楼夢』、日本とかかわりの深い魯迅、そして『ラーマーヤナ』だけ。その完結の直後(1966~70年)に刊行されていた筑摩書房の『世界文学全集』には、アジアから『論語』、『史記』、『唐詩選』、『西遊記』、そしてまたも魯迅が入ってますが、『ラーマーヤナ』はありません。『マハーバーラタ』がまだ人間のリアルな精神の揺らぎを扱っているのと比べると『ラーマーヤナ』はるかに荒唐無稽で、文学全集に含まれたヨーロッパ近代小説と同等に「文学」として読んでいいものかと思われるでしょう。それでも河出書房新社の文学全集に『ラーマーヤナ』が入っているのは、訳者であり編集委員[4]のひとりだった阿部知二の推薦によるのかもしれません。英文学者の阿部は、1942年に「徴用」でインドネシアのジャワ島に行ってインドの大叙事詩のことを知り、戦後の1961年に「アジア・アフリカ作家会議」のためにセイロン(現スリランカ)訪問、ラーヴァナがシーターを幽閉していたとされる場所を訪れて『ラーマーヤナ』を想起したというのは、日本の文学者と南アジア文化の出会いとして興味深い例です[5]。彼はインド文化やサンスクリット文学の専門ではないものの、複数の英訳書を参照して、時代背景などを補足する注や解説をつけてくれているのも河出書房新社版をお薦めできる理由です。
阿部ら編集委員が『ラーマーヤナ』を「世界文学」に伍するに値するとしたのは、単なる童話やマンガやアニメ向けのおもしろいお話にとどまらない深さを『ラーマーヤナ』が持っていると評価したからでしょう。ひとつの理由は、先に述べたような、視覚的形象を超えた過剰で奔放な言語表現からかもしれませんが、それにとどまらず、人間の弱さや運命の過酷さという、『マハーバーラタ』と同じく現代にも通じる普遍的なテーマが現れているからかもしれません。前述のように『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』よりも人間離れした登場人物(神、悪鬼、動物を含む)が活躍するといっても、根本的には、神々でなく人間のお話だともいえます。ラーヴァナはいかなる神々にも負けない力を与えられているにもかかわらず、人間(ラーマ)にだけは滅ぼされるという設定は象徴的です。神々よりラーヴァナが強く、ラーヴァナよりラーマが強いわけですから、神々より強い人間がいるということです。あまりに超人的な活躍のためにラーマはのちヴィシュヌ神の化身とされますが、『マハーバーラタ』でパーンダヴァ軍を支援するクリシュナが神であるにもかかわらず倫理にもとる行動をして最後は死を迎えるように、クリシュナであれラーマであれ、いやラーヴァナさえも、その行動も思考もあくまで人間のものなのです。そこで展覧会での「ヒンドゥーの神々の物語」は、現代・日本からかけ離れた場所・時代の物語ではなく、あくまでも「人間の物語」として見ることもできるということになります。
しかし『ラーマーヤナ』を、神々の寓話としてでも、荒唐無稽なSFとしてでなく、人間の物語として読むということは、この古典の暗部にも向き合わないといけないことをも意味します。(以下「ネタバレ」がありますので、これから虚心に『ラーマーヤナ』を読んでみようという人は読まないように。)
ラーヴァナとの戦闘で負傷したラクシュマナを前に、ラーマは奇妙なことを言います。「妻ならばいずこの地にも見出し得、友ならばいずこにも求め得るが、かかる弟をいずこへゆけば持ち得るのか」。愛妻シーターを救うためにこそ大変な苦労をして(スグリーヴァやハヌマーンにものすごく迷惑かけて…)ラーヴァナと戦っていたと思っていた読者はこのせりふにとまどうでしょう。さらにこの前後のラーマのせりふからは、まるでラクシュマナが彼の恋人のように思われます。すると、現代社会学用語を知っている人は、二人には「ホモソーシャル」(男性たちが女性を排除した親密な集団を作ること)な関係があると思ってしまいます。実際、『ラーマーヤナ』には、ヒロインのシーターを含め、女性が主体的に発言・行動する場面はほとんどありません。行動する女性といえば、ラーマの追放を求めた王妃カイケーイとその侍女マンタラー、大戦争のきっかけとなったラーヴァナの妹のシュールパナカーという悪役ですし、長いせりふを言うのは、スグリーヴァの兄でラーマに殺されたヴァ―リンの妻ターラー、やはりラーマに殺されたラーヴァナの妻マンドーダリーの延々続く嘆きくらいで、これらの女性は男どうしの戦いの結果を受け入れることしかできません。
『ラーマーヤナ』の「ホモソーシャル」な性格(男どうしの絆を重視し女性を排除する)を決定づけるのは、物語の最後近くにあるラーマのせりふです。大戦争の勝利によって、長くラーヴァナにとらわれていたシーターと感動の再会を果たすだろう……という読者の期待を完全に裏切って、ラーマは次のように言い放ちます。「余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄(いてき)の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。」――それまでの英雄譚も愛の物語も台無しにしてしまうショッキングなせりふです。そこでシーターは火の中に身を投じ神々に守られて自らの潔白を証明するのですが、後世に付け加えられた最終巻では、シーターへの悪い風評が王の妻としてふさわしくないという判断から、シーターは離縁されてしまいます。この最終巻はまったく余計なものとされているようですが、上記のラーマのセリフはその前の巻にあるものですから、「文学」としての整合性・完結性を期待する読者には、「ラーマひどすぎる!」「がっかり!」「あれだけ多くの犠牲を出した戦いは何のためだったんだ!」「それが暴力によって拉致され監禁されたシーターに言うことか!」「シーターあまりにもかわいそう!」……と、現代人の読む「文学」としてはまったく受け入れがたい結末です。しかし、このような不条理で悲劇的な結末こそ、近代的な「文学」として回収できない、男性中心主義の本質的な暴力性を伝えているのかもしれません……とすれば『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』以上に現代的な物語として読むことができるのかもしれません!
一見あまりに単純であまりに古めかしい『ラーマーヤナ』が、東南アジアまで広がる無数のバージョン、現代のマンガやグラフィック・ノベル、アニメまで再解釈され編集され続けるのは、時代と地域を超えた物語としての潜在力を『ラーマーヤナ』が持っているからに他ならないでしょう。
黒田雷児(学術交流専門員)
参考文献
*はアジ美図書所蔵 **は1,2巻のみ所蔵
*ヴァールミーキ(阿部知二訳)『ラーマーヤナ』(世界文学全集Ⅲ-2)、河出書房新社、1966年
*河田清史『ラーマーヤナ インド古典物語 (上) (下)』 (レグルス文庫)、 第三文明社 1971年
*永井豪『神話大戦1・2 ラーマーヤナ編 上・下』、徳間書店、1996年
*ツルシダース(池田運訳)『ラーマヤン ラーム神王行伝の湖』、講談社出版サービスセンター、2003年
**ヴァールミーキ(中村了昭訳) 『新訳 ラーマーヤナ (1)~(7) 』(東洋文庫)、平凡社、2012-13年
デーヴァダッタ・パトナーヤク (沖田瑞穂、上京恵訳)『インド神話物語 ラーマーヤナ 上・下』 原書房 2020年
([上]はこちら)
3 『シャクンタラー姫』の「忘れたふり」?
『マハーバーラタ』の本筋の主人公たちの祖先にあたるクル家の王の物語として名高いのがカーリダーサ作『シャクンタラー姫』です。私が読んだのは岩波文庫の辻直四郎による擬古文を多用した訳なので読みづらく、解説書や別バージョンから下記のストーリーを再構成しています。
「ヒンドゥーの神々の物語」展には、シャクンタラーの物語を描いたラージャー・ラヴィ・ヴァルマー作品2点が出品されています。《シャクンタラーの誕生》は、インドラ神の策略でアプサラス(天界の踊り子)メネカーがわざとらしく裸を見せて聖仙(苦行者)ビシュバミトラを誘惑し女子を生みます。その赤ん坊(シャクンタラー)をビシュバミトラに見せようとしますが、彼が自分の子と認知しないで見ようともしない場面。ヴァルマー・プリントのなかでもよく知られたもので[1]、展示中のマッチラベルにもなってます。
ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《シャクンタラーの誕生》
20世紀前半 福岡アジア美術館蔵
ヴァルマーはインドで初めてヨーロッパ様式の油彩画を本格的に制作した巨匠とされていますが、複数の職人が製版・印刷するプリントはもちろん、油彩画を見てもヨーロッパのアカデミズム絵画の基準からしたら下手くそです。この作品でも、遠近感や人体が不自然。でもそれよりさらに不自然なのがビシュバミトラの左手を高く上げて顔を覆うポーズで、当時の演劇でのジェスチャーからきているとか。なお男性が自分の子供を認知しない場面は、以下に述べるように、成長したシャクンタラー自身が経験することになるので、よほどインドではこういう話が多かったのでは……。
もう一点は《恋文をしたためるシャクンタラー》で、後世の『マハーバーラタ』一族の祖先であるドフシャンタ王にひとめぼれしたシャクンタラーが、二人の友人のすすめで蓮の葉にラブレターを書いているところ。中央上部の鹿も物語に出てきますが、森のなかに横たわる人物、全体の三角形構図とその頂点が奥まっているのに手前に見えるところから、エドゥアール・マネの《草上の昼食》を思い出すのは私だけでしょうか……
ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《恋文をしたためるシャクンタラー》
1930年代 福岡アジア美術館蔵(黒田豊コレクション)
ではこのシャクンタラーの恋がどうなったかというと、すっとばしていえば、彼女とドフシャンタ王は結ばれ男児が生まれますが、シャクンタラーが6歳になった息子を王に見せに行くと、「こんな女知らん!」「6歳でこんなにでかいガキはおかしい!」(笑)と激しく拒絶するのです! ただこれは王様の健忘症とか、美人ぞろいの妃が何人もいるせいではあまりにあんまりな(凡庸な)話になってしまいます。そこでまたも「呪い」が物語を動かします。ドフシャンタ王と結ばれてボ~ッとしていたシャクンタラーは、訪ねてきたドゥルヴァーサス仙人にちゃんと応対しなかったので、怒りっぽすぎる仙人が「ボ~ッと生きてるんじゃねえよ!」と言って(うそ)呪いをかけて、王様が二人の出会いの証拠である指輪を見るまでシャクンタラーのことを忘れさせてしまうのです。しかもさらに間抜けなことに、シャクンタラーはうっかり指輪をなくしてしまったので(これは呪いのせいではなさそう…)、王様の記憶をとりもどせなかったのです。
これが王様の不自然な拒絶を説明するカーリダーサ作品の設定ですが、元の『マハーバーラタ』ではそんな凝った(とってつけたような)設定はありません。実は王様はシャクンタラーを忘れていなかったのに、年長者の承認も儀式もない「ガンダルヴァ方式」で結婚したことを恥じて知らんぷりをして、天の声から結婚を証明されて初めてシャクンタラーと認めたとか……ギリシャ古代劇でもおなじみの「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」による安易な決着を避けるためにカーリダーサ版には指輪+仙人の呪いという仕掛けが加わったわけです。それでももともとの無理な設定が残っているようで、カーリダーサ作品でも、シャクンタラーを拒絶したのが呪いのせいだと周囲の人も納得したときに、ドフシャンタ王は「(安堵して、独語)余は非難からまぬかれた。」(辻直四郎訳)とありますから、「やっぱり、本当に忘れてただけじゃないと~?」と(なぜか博多弁で)ツッこんでしまいますよね。理由はどうであれ、シャクンタラーにとってはひどい話です。まあ結果的にはめでたしめでたしなんだけど……だけどそれいいのか?と思うのは、次のような話が『マハーバーラタ』にあるからです。
4 行為の結果を考えない……でいいの?
『マハーバーラタ』に含まれる「バガヴァッド・ギータ―」はヒンドゥー教の最高の聖典とされ、世界中で読まれています。
これは親族や師匠を相手に戦うことをためらうアルジュナに、戦いへの決意を与えるために、アルジュナの御者を務めるクリシュナが諭したもので、そこで最も有名なのは下記の部分です。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(上村勝彦訳)
私も最初これを読んだときに衝撃を受けました。苦しい状況で自分の仕事の意義や成果に疑問があっても、その時点で自分ができることをしっかり遂行せよという教えはカッコよすぎます(いまどきの「成果主義」とかには真っ向から対立しますよね)。しかしよく考えれば……これは「つべこべ考えずに戦え、敵を殺せ!」と言ってるのと同じことでは? 強制や洗脳による「お国のため」の戦争を肯定しているのでは? さらに、前述の「もの忘れ」キャラにあてはめると、「欲望にかられた『行為』で女性を妊娠させておきながら『結果』に責任をとらないとはなんと非道な!」と思いませんか?
現代人が「バガヴァッド・ギータ―」を読んで抵抗があるのは、くどいほど繰り返されるブラフマー神への祭祀の義務なぞ現代の日本人には無縁なことだからですし、四姓制度(いわゆるカースト制)の絶対視は人権の観点から許容できないからです。そもそもアルジュナが戦いの義務を課せられるのは、彼がクシャトリヤ(武人)階級に属しているからともいえます[2]。しかし世界の「古典」とされる文献にはそのような歴史的制約は避けられないでしょうし、なぜ「古典」が現代にも異文化にも継承されてきたか、なぜ「バガヴァッド・ギータ―」が世界中で翻訳され読まれ研究され、知識人にも政治家にも影響を与えてきたのか考える必要があります。何しろ哲学者シモーヌ・ヴェイユやガンディーにも感銘を与え、ガンディーの非暴力による反英独立運動(サッティヤーグラハ)にも影響したのですから[3]。次のヴェイユの言葉は、上に引用したクリシュナの言葉を現代人に通じるように言い換えたものかもしれません。「自分がかかわっている社会的な諸関係の枠組内において、もろもろの人間的な義務を実践しなければならない。それから離れているようにという神の特別な命令がないかぎりのことであるが。」(冨原眞弓訳『カイエ』4、赤松明彦からの孫引き、p.190)[4]
参考文献(*以外はアジ美所蔵)
カーリダーサ「シャクンタラー」(田中於菟弥訳)、『筑摩世界文学大系9 インド・アラビア・ペルシア集』(筑摩書房、1974年)
*カーリダーサ(辻直四郎訳)『シャクンタラー姫』[岩波文庫](岩波書店、1977年)
C.ラージャーゴーパーラーチャリ(奈良毅、田中嫺玉訳)『インド古典物語 マハーバーラタ 上・中・下』[レグルス文庫](第三文明社、1983年) のち第三文明選書として新装版で復刊(2017年)*
『マハバーラト 第1~4巻』(池田運訳)(講談社出版サービスセンター、2007~2009年)
マーガレット・シンプソン(菜畑めぶき訳)『マハーバーラタ戦記 賢者は呪い、神の子は戦う』(PHP研究所、2002年)
*デーヴァダッタ・パトナーヤク(沖田瑞穂訳)『インド神話物語 マハーバーラタ 上・下』(原書房、2019年)
前川輝光『マハーバーラタの世界』(めこん、2006年)
山際素男『踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語』[光文社新書](光文社、2006年)
上村勝彦『バガヴァッド・ギータ―の世界 ヒンドゥー教の救済』[NHKライブラリー](日本放送出版協会、1998年)
*赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか? 』[書物誕生―あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)
Garry O’Connor, The Mahabharata: Peter Brook’s Epic in the Making, photography by Gilles Abegg, Channel Four Book (London: Hodder & Stoughton, 1989).
*赤瀬川原平『老人力』(筑摩書房、1998年)
[1] 謹厳な修行者が美女に誘惑される話はエロを倫理で包装できるから世界中にあるのかも……日本では歌舞伎十八番の『鳴神(なるかみ)』とか。
[2] 赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか? 』[書物誕生―あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)、p. 7
[3] 同上 p.153-190に詳しい。
[4] いったん書き終わったあとに見つけたヴェイユのことば。「はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生じるとき、その行為者は完全に自由だろう。行為じたいの難易のほどは重要ではない。成功で飾られるか否かさえ重要ではない。苦痛と失敗は行為者を不幸にすることはできても、行為の機能をみずから掌握している行為者をはずかしめることはできない。」(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、冨原眞弓訳、岩波文庫、2005年、p.84) クリシュナがこのように合理的に説明してくれれば、アルジュナも納得してさっさと戦闘に参加したのでは……)。
1 『マハーバーラタ』への道
3月29日まで開催中の「ヒンドゥーの神々の物語」を見て、『ラーマーヤナ』と並ぶインドの大叙事詩『マハーバーラタ』にだいぶ昔(1989年頃?)に出会ったことを思い出しました。『マハーバーラタ』はとんでもなく長大な物語で、「サンスクリット原典で全18巻、10万詩節、1200章、20万行を超える世界最大の叙事詩」(山際素男による)。聖書の約3倍半と言われてもピンときませんが、山際編訳の9巻本[1]は計3119ページ。池田運の全訳[2]が4巻で4126ページにもなります。武人たちを中心として神々や聖者や美女など多数の人物が登場する物語ですが、中心となるのは、パーンダヴァ家5兄弟(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)と、カウラヴァ家100人兄弟の、親族どうしの凄絶な戦争(クルクシェートラの戦い)でクライマックスを迎える壮大きわまりないお話です。
作者不詳《カウラヴァ族とパーンダヴァ族の戦争》20世紀前半 福岡アジア美術館蔵
本筋以外にこの一族の長い歴史も、ナラ王とダマヤンティ、シャクンタラー姫(このふたつは岩波文庫で独立した本になってます)を含む無数の物語も、戦争の後日譚も、後述の高名な「バガヴァット・ギーター」のようなヒンドゥー教の聖典も含まれます。現代人は多忙なうえに娯楽がいくらでもあり、わずかな空き時間もスマホに奪われていますから、全部を通読する余裕(忍耐力?)のある人はほとんどいないでしょう。インド国営テレビ・ドゥールダルシャンで1988年10月から1990年6月まで放映され最高視聴率が92%という驚異的な人気を集めたテレビシリーズのDVDも、だいぶ後になってインドの書店で入手しましたが[3]、45分の94回分!DVD19枚!なんて見る時間はとれそうもなく、第1回だけしか見てません……。
横山光輝の『三国志』みたいにマンガで気楽に読めるといいんだけど……そんなの日本では出ていませんから、私が『マハーバーラタ』の全体像を把握できたのは、レグルス文庫の3冊本(下記参考文献参照)からです。新書版で全816ページと短かく、主となるストーリーがコンパクトにまとめられています。もうひとつは、日本のテレビで録画した、ピーター・ブルック演出の演劇(1985年)に基づく、1989年の映画[4]。元は舞台劇ですから、インドのテレビ番組のような(今の眼ではかなりローテクな)特撮映像はほとんどなかったと思いますが、世界各地から集めた、様々な人種・文化の俳優たちによる演技、全体の荘重で厳粛で超俗的な雰囲気は十分に吸引力をもっていて、レグルス文庫版よりもはるかに『マハーバーラタ』の精神性にふれることができました。あまりに感動したので、6時間近いのに2回も見た覚えがあります[5]。
2 「もの忘れ」の呪い
このような手軽(安易?)な接しかたの範囲ですが、ではなぜ『マハーバーラタ』が(インドについて特に深い知識もない)私にも鮮烈な印象を与えたのでしょうか。まずは(特にブルック版で強調された)多様なキャラクターの魅力です。人間離れした人徳や知力や意志や戦闘力の持ち主だけでなく、いやむしろそういう人こそ、生身の人間には逃れられない失敗、愚行、卑劣さを経験し、避けられない過酷な運命に襲われるのです。典型的なのは、人徳で知られるユディシュティラの失策です。彼はカウラヴァ家の長兄ドゥルヨーダナに博打にさそわれてイカサマとも知らず負け続け、領土、財産、兄弟と妻(5人兄弟共通のドラウパディー)まで失ってしまうのです[6]。(なお前述のインドのテレビで最高視聴率を記録したのが、博打のカタにとられたドラウパディーが服を脱がされる回[7]。実際はクリシュナの加護で裸にはならないことをインド人ならたいてい知っているだろうに[笑])またこのユディシュティラは、猛烈な戦闘力を示す敵将ドローナの戦意を失わせるために、嘘をつきます。(ドローナの息子と同じアシュヴァッターマンと名付けた象を弟のビーマが殺し、真相を問い詰めるドローナに対し、ユディラシュテラが、「象の…」のところだけ小声で言って「…アシュヴァッターマン」が殺されたと告げたため、それを信じたドローナが戦意を喪失する。)勝つために手段を選ばない戦争の非情さ、卑劣さを示すエピソードです。しかしこれにとどまらず、以下に述べるカルナとの闘いのように、パーンダヴァ側を勝たせるために、アルジュナの御者であり精神的な指導者でもあるクリシュナは、しばしば倫理に反するような策を使うのです。その冷徹な指揮の恐ろしさは、核兵器をも思わせる殺戮兵器や、全人類が滅亡へとすすんでいくような戦慄にもつながっていきます(最終的に勝利をおさめるパーンダヴァ軍も、父をだまし討ちされて怒りくるったアシュヴァッターマンによってほとんど殺されてしまう)。このような人間観の深さと運命の恐ろしさにおいて、『マハーバーラタ』は、(私の知る限り)『ラーマーヤナ』をはるかにしのいでいます。
しかし私が個人的に『マハーバーラタ』からショックを受けたのは、もっとささやかな……いや、ささやかだからこそ現代人にも日常的に起こりそうなエピソードです。御者の身分(実はそうでないことが明らかになる前)のカルナは、ビーシュマ、ドローナの後を継いで、3人目のカウラヴァ軍の総司令官になりますが、ふたつの呪いによってアルジュナに討たれます。ひとつは闘いの最中に自分の戦車の車輪が地中にはまって動けなくなってしまう呪い。さらにもうひとつの呪いにより、必殺の兵器ブラフマスートラを呼び起こすための文句(マントラ)がどうしても思い出せなくなること[8]。これが私には個人的に衝撃だったのは、加齢による記憶力の低下を自覚する(「老いるショック」?)以前に、若いころから記憶力がとても悪く、仕事でも生活でもさんざん恥ずかしい思いをしてきたからです……。赤瀬川原平が「老人力」と名付けたように「忘却力」のメリットもあると自分を慰めてきましたが、大戦争の危機的な状況のなかでフレーズを思い出せないという致命的な物忘れがあるとは……それが私にも(あなたにも!)起こらない保証はありません! ([下]につづく)
黒田雷児(学術交流専門員)
[1] (下)の参考文献参照。インドに足しげく通い多数のインド題材の作品を制作した日本画家・秋野不矩(ふく)の挿絵と、多数のブックデザインをおこなった渡辺千尋のデザインなので魅力的な本になってますのでおすすめ。
[2] 文末の参考文献参照。題名を「マハバーラト」としているように、人名など固有名詞の読みが他と異なっています。なお上村勝彦による原典訳(ちくま学芸文庫)は訳者の死去により未完。
[3] 今はインターネット上で見れます(字幕ありませんが)。
[4]ピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』は東京の銀座セゾン劇場で1988年5月29日から7月22日に上演されました。1回の上演に9時間を要します。英語の参考文献参照。
[5] あいにくそのVHSテープを紛失してしまいましたが、今ではテープやDVDは市販されています。
[6] 立派な人が博打ですべてを失うというのは『マハーバーラタ』の別の有名なエピソード、ダマヤンティーの夫ナラ王の話にも出てきます。よほどインドでは上流階級でも博打で破滅する人が多かったということでしょうか……
[7] 『生活とアート I インドのカレンダーアート 女神からピンナップへ』(福岡アジア美術館、2000年)、9-1の作品解説(p.72)
[8] なおこのような窮地に陥ったカルナを、戦闘態勢をとれない相手とは戦わないという掟を破ってアルジュナに討ち取らせるのは、またしてもクリシュナなのです。
さる11月27日・28日に、ワークショップを開催しました。このワークショップは、6月21日から9月21日までアジアギャラリーで開催していた展覧会「あじびレジデンスの部屋 第2期『つくってふれてアジアの文化』」の関連イベントとして、当初、8月末に開催予定でしたが、新型コロナ感染症の影響で延期されていた催しです。当時の応募者が多数だったため、実施日を一日増やす形で2日間にわたって行いました。
ワークショップは、2017年に当館で滞在制作をおこなったインドのアーティスト、クルパ・マーヒジャーさんが当時開催したプログラムを体験する内容になっており、ワークショップの講師は筆者が務めましたが、クルパさんは今回のためにインドの文様や制作プロセスについてスライドを作成しておくってくれました。そしてワークショップの最後には、クルパさんとオンラインで結んで作品についてのコメントしてもらい、参加者との交流をはかりました。
手順を説明
文様を下描き
液体ゴムでマスキング