2022年1月26日水曜日

「ヒンドゥーの神々の物語」展によせて  忘却のレッスン~『マハーバーラタ』の深みにハマる(上)

 

1 『マハーバーラタ』への道

329日まで開催中の「ヒンドゥーの神々の物語」を見て、『ラーマーヤナ』と並ぶインドの大叙事詩『マハーバーラタ』にだいぶ昔(1989年頃?)に出会ったことを思い出しました。『マハーバーラタ』はとんでもなく長大な物語で、「サンスクリット原典で全18巻、10万詩節、1200章、20万行を超える世界最大の叙事詩」(山際素男による)。聖書の約3倍半と言われてもピンときませんが、山際編訳の9巻本[1]は計3119ページ。池田運の全訳[2]4巻で4126ページにもなります。武人たちを中心として神々や聖者や美女など多数の人物が登場する物語ですが、中心となるのは、パーンダヴァ家5兄弟(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)と、カウラヴァ家100人兄弟の、親族どうしの凄絶な戦争(クルクシェートラの戦い)でクライマックスを迎える壮大きわまりないお話です。

作者不詳《カウラヴァ族とパーンダヴァ族の戦争》20世紀前半 福岡アジア美術館蔵

本筋以外にこの一族の長い歴史も、ナラ王とダマヤンティ、シャクンタラー姫(このふたつは岩波文庫で独立した本になってます)を含む無数の物語も、戦争の後日譚も、後述の高名な「バガヴァット・ギーター」のようなヒンドゥー教の聖典も含まれます。現代人は多忙なうえに娯楽がいくらでもあり、わずかな空き時間もスマホに奪われていますから、全部を通読する余裕(忍耐力?)のある人はほとんどいないでしょう。インド国営テレビ・ドゥールダルシャンで198810月から19906月まで放映され最高視聴率が92%という驚異的な人気を集めたテレビシリーズのDVDも、だいぶ後になってインドの書店で入手しましたが[3]45分の94回分!DVD19枚!なんて見る時間はとれそうもなく、第1回だけしか見てません……。

ドゥールダルシャン放映(B.R.チョプラ製作、ラヴィ・チョプラ監督)
『マハーバーラタ』DVDボックス(2008年) 筆者蔵

横山光輝の『三国志』みたいにマンガで気楽に読めるといいんだけど……そんなの日本では出ていませんから、私が『マハーバーラタ』の全体像を把握できたのは、レグルス文庫の3冊本(下記参考文献参照)からです。新書版で全816ページと短かく、主となるストーリーがコンパクトにまとめられています。もうひとつは、日本のテレビで録画した、ピーター・ブルック演出の演劇(1985年)に基づく、1989年の映画[4]。元は舞台劇ですから、インドのテレビ番組のような(今の眼ではかなりローテクな)特撮映像はほとんどなかったと思いますが、世界各地から集めた、様々な人種・文化の俳優たちによる演技、全体の荘重で厳粛で超俗的な雰囲気は十分に吸引力をもっていて、レグルス文庫版よりもはるかに『マハーバーラタ』の精神性にふれることができました。あまりに感動したので、6時間近いのに2回も見た覚えがあります[5]

 

2 「もの忘れ」の呪い

このような手軽(安易?)な接しかたの範囲ですが、ではなぜ『マハーバーラタ』が(インドについて特に深い知識もない)私にも鮮烈な印象を与えたのでしょうか。まずは(特にブルック版で強調された)多様なキャラクターの魅力です。人間離れした人徳や知力や意志や戦闘力の持ち主だけでなく、いやむしろそういう人こそ、生身の人間には逃れられない失敗、愚行、卑劣さを経験し、避けられない過酷な運命に襲われるのです。典型的なのは、人徳で知られるユディシュティラの失策です。彼はカウラヴァ家の長兄ドゥルヨーダナに博打にさそわれてイカサマとも知らず負け続け、領土、財産、兄弟と妻(5人兄弟共通のドラウパディー)まで失ってしまうのです[6]。(なお前述のインドのテレビで最高視聴率を記録したのが、博打のカタにとられたドラウパディーが服を脱がされる回[7]。実際はクリシュナの加護で裸にはならないことをインド人ならたいてい知っているだろうに[笑])またこのユディシュティラは、猛烈な戦闘力を示す敵将ドローナの戦意を失わせるために、嘘をつきます。(ドローナの息子と同じアシュヴァッターマンと名付けた象を弟のビーマが殺し、真相を問い詰めるドローナに対し、ユディラシュテラが、「象の…」のところだけ小声で言って「…アシュヴァッターマン」が殺されたと告げたため、それを信じたドローナが戦意を喪失する。)勝つために手段を選ばない戦争の非情さ、卑劣さを示すエピソードです。しかしこれにとどまらず、以下に述べるカルナとの闘いのように、パーンダヴァ側を勝たせるために、アルジュナの御者であり精神的な指導者でもあるクリシュナは、しばしば倫理に反するような策を使うのです。その冷徹な指揮の恐ろしさは、核兵器をも思わせる殺戮兵器や、全人類が滅亡へとすすんでいくような戦慄にもつながっていきます(最終的に勝利をおさめるパーンダヴァ軍も、父をだまし討ちされて怒りくるったアシュヴァッターマンによってほとんど殺されてしまう)。このような人間観の深さと運命の恐ろしさにおいて、『マハーバーラタ』は、(私の知る限り)『ラーマーヤナ』をはるかにしのいでいます。

しかし私が個人的に『マハーバーラタ』からショックを受けたのは、もっとささやかな……いや、ささやかだからこそ現代人にも日常的に起こりそうなエピソードです。御者の身分(実はそうでないことが明らかになる前)のカルナは、ビーシュマ、ドローナの後を継いで、3人目のカウラヴァ軍の総司令官になりますが、ふたつの呪いによってアルジュナに討たれます。ひとつは闘いの最中に自分の戦車の車輪が地中にはまって動けなくなってしまう呪い。さらにもうひとつの呪いにより、必殺の兵器ブラフマスートラを呼び起こすための文句(マントラ)がどうしても思い出せなくなること[8]。これが私には個人的に衝撃だったのは、加齢による記憶力の低下を自覚する(「老いるショック」?)以前に、若いころから記憶力がとても悪く、仕事でも生活でもさんざん恥ずかしい思いをしてきたからです……。赤瀬川原平が「老人力」と名付けたように「忘却力」のメリットもあると自分を慰めてきましたが、大戦争の危機的な状況のなかでフレーズを思い出せないという致命的な物忘れがあるとは……それが私にも(あなたにも!)起こらない保証はありません!  (つづく)

黒田雷児(学術交流専門員) 




[1] (下)の参考文献参照。インドに足しげく通い多数のインド題材の作品を制作した日本画家・秋野不矩(ふく)の挿絵と、多数のブックデザインをおこなった渡辺千尋のデザインなので魅力的な本になってますのでおすすめ。

[2] 文末の参考文献参照。題名を「マハバーラト」としているように、人名など固有名詞の読みが他と異なっています。なお上村勝彦による原典訳(ちくま学芸文庫)は訳者の死去により未完。

[3] 今はインターネット上で見れます(字幕ありませんが)。

[4]ピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』は東京の銀座セゾン劇場で1988529日から722日に上演されました。1回の上演に9時間を要します。英語の参考文献参照。

[5] あいにくそのVHSテープを紛失してしまいましたが、今ではテープやDVDは市販されています。

[6] 立派な人が博打ですべてを失うというのは『マハーバーラタ』の別の有名なエピソード、ダマヤンティーの夫ナラ王の話にも出てきます。よほどインドでは上流階級でも博打で破滅する人が多かったということでしょうか……

[7] 『生活とアート I インドのカレンダーアート 女神からピンナップへ』(福岡アジア美術館、2000年)、9-1の作品解説(p.72) 

[8] なおこのような窮地に陥ったカルナを、戦闘態勢をとれない相手とは戦わないという掟を破ってアルジュナに討ち取らせるのは、またしてもクリシュナなのです。


2021年12月25日土曜日

ワークショップ「マスキングでインドの文様を作ろう!」を開催しました。

 

 さる11月27日・28日に、ワークショップを開催しました。このワークショップは、6月21日から9月21日までアジアギャラリーで開催していた展覧会「あじびレジデンスの部屋 第2期『つくってふれてアジアの文化』」の関連イベントとして、当初、8月末に開催予定でしたが、新型コロナ感染症の影響で延期されていた催しです。当時の応募者が多数だったため、実施日を一日増やす形で2日間にわたって行いました。


 ワークショップは、2017年に当館で滞在制作をおこなったインドのアーティスト、クルパ・マーヒジャーさんが当時開催したプログラムを体験する内容になっており、ワークショップの講師は筆者が務めましたが、クルパさんは今回のためにインドの文様や制作プロセスについてスライドを作成しておくってくれました。そしてワークショップの最後には、クルパさんとオンラインで結んで作品についてのコメントしてもらい、参加者との交流をはかりました。


           手順を説明

           文様を下描き

           液体ゴムでマスキング

 参加くださった方の中には、マスキングテープを使った創作と勘違いしていた方もいましたが、液体ゴムを使ったマスキングの技法を楽しんでくれていました。

           上から絵の具を着彩


      絵の具が乾いてから液体ゴムを剥がす作業は、結構盛り上がりました。



        インドのクルパさんから作品のコメントをもらいました。




 終了後のアンケートでは、
・オンラインでインドと繋がって、クルパさんと直接お話ができたことに感動しました。
 コロナ渦ならではかとも思いましたが、今後もこのように世界中のアーティストと繋がれる可能性があると思うと、少し明るい気分になれました。
・液体ゴムを使って行うということで、自分では思いもつかない方法だったので、とても興味深かった。
・大人になると、何かひとつのことに集中することが減ってきますが、時間が足りないくらい集中できて、完成した後の気持ちいい疲労感がなんとも言えず、また作ってみたいなと思っています。
・また、クルパさんとオンラインで交流できたことも、直接お話を伺うこともできたので、貴重な体験になりました。

といった、非常に励まされるコメントをいただきました。
 今年はコロナ禍でアジアからアーティストの招聘はできませんでしたが、かつての滞在アーティストと再びこのような形で一緒に創作活動を行うことができたことは、今後のレジデンス・プログラムについて考えていく上でも意義深い経験となりました。
 ご参加くださった方々、クルパさん、本当にありがとうございました。                
                               (学芸課 K.M.)











2021年12月6日月曜日

日本経済新聞内「美の粋」にて、福岡アジア美術館のベトナム作品4点が取り上げられました!

 少し遅れての報告になってしまいますが、先日1121日の日本経済新聞日曜版NIKKEI The STYLE内の「美の粋」というコーナーで、当館所蔵のベトナム作品4点を取り上げていただきました。

テーマが「ベトナム戦争のころ(下)」ということで、絹絵の巨匠グエン・ファン・チャンの《籐を編む》(1960年)およびベトナム戦争ポスターのファム・ヴィエット・ホン・ラム《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》(1972年)、グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》(1972年)、ファム・ミン・チー《人民に永遠の春をもう一度》(1975年)など、今回紹介された作品はいずれも1960年代から1970年代にかけて、ベトナム戦争に揺れる激動の時代に当時のベトナム民主共和国(北ベトナム)で制作されたものです。


グエン・ファン・チャン《籐を編む》1960年

ファム・ヴィエット・ホン・ラム
《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》1972年

グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》1972年

ファム・ミン・チー《人民に永遠の春をもう一度》1975年

ちなみに本記事の一週間前に掲載された前編「ベトナム戦争のころ(上)」では、同時代のアメリカの現代美術、すなわち1950年代から60年代にかけてニューヨークで隆盛を極めたポップ・アートが取り上げられています。戦争の渦中でしのぎを削っていたベトナムとアメリカ。両者のコンテクストを掘り下げて、当時のそれぞれの美術を再考する企画というわけです。


さて、当館所蔵作品の特集に戻りますが、農村の女性たちが籠を編む穏やかな風景を描いたグエン・ファン・チャンの絹絵と、戦意高揚を明確に意図した力強いプロパガンダポスターが、同時代の美術として並んでいるのは一見奇妙に思えるかもしれません。

しかし、当時ベトナム民主共和国(北ベトナム)を率いていたベトナム共産党は、美術作品において描かれるべき主題は「労働者・農民・兵士」であるとして、芸術家たちにその方針に沿った制作を要請しました。一方グエン・ファン・チャンは、フランス植民地統治下であった学生時代から一貫して穏やかな農村の暮らしを描き続けてきた画家です。また、「絹絵」はそもそもベトナム近代において「創られた伝統」として誕生した絵画ジャンルであり、誕生以来常に「ベトナムらしさ」と結びつけられてきました。すなわち、ファン・チャンの《籐を編む》においては、絹絵という東洋的な素材、そして農村の日常に美を見いだす画家の姿勢が、当時の政権が目指した国家の理想的イメージと合致するものだったのです。

一方、戦争ポスターについては、「プロパガンダポスターなんてどれも似たようなものだろう」というイメージをお持ちの方もいるかもしれません。たしかに、迅速に大量のポスターを制作し続けることが要求される状況下では、同じ構図やモチーフを繰り返し用いることも多々あります。しかし、同じ民族同士が殺しあう悲しみを描いたファム・ヴィエット・ホン・ラム《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》には、戦意高揚だけではない、おそらくは画家個人の戦争に対する葛藤の念を見いだすことができますし、グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》の陰影表現には、学生も多く動員されたポスター制作の現場で、技術を磨いていった若き画家の試行錯誤の跡が窺えます。大量生産といえども、1970年代初頭まで手描きでの制作が中心だったポスター制作の現場には、個々の画家たちの努力や創意工夫の痕跡が残っているのです。


著作権の関係上、記事本文や紙面の画像はこちらに載せることができませんが、見開き・カラー図版でたっぷりと特集していただいているので、もし興味を持っていただけましたら、今からでもぜひ図書館等で記事をチェックしていただけると嬉しいです!(学芸員K

2021年12月3日金曜日

おうちで知りたいアジアのアート Vol. 13  東京オリンピックと大阪万博のリュ・キョンチェ ――アジア美術国際化のはじまり

1225日まで「あじびコレクションX―③ 越境する美術家―郭仁植(クァク・インシク)と柳景埰(リュ・キョンチェ) 」で展示しているリュ・キョンチェの作品《季節》は、どちらも当館所蔵の韓国作品で最も古い1962年の制作になります。

韓国は全アジアでも現代的な表現の美術が早くから展開し、1975年に東京画廊で「五つのヒンセク〈白〉 韓国5人の作家」が日本における最初の「単色絵画」の紹介として知られています。そのために、福岡市美術館でも「単色絵画」が収蔵され、それらは国際的な批評眼にも耐える独自性をもつ韓国美術の代表として今や美術市場で驚くべき高額で売買されるようになりました。しかしその反面、アジ美では東南アジアやインドの「近代美術」コレクションが充実しているのに対し、20世紀初頭から展開した韓国の「近代美術」は1点も収集できておらず(戦争などであまりに多くの作品が失われ、美術市場に重要作品が出ることはほとんどない)、その意味でも1962年のクァク・インシクとリュ・キョンチェ作品は(作品も人生も対照的ですが)貴重といえます。

 さて、このリュ・キョンチェの履歴を調べてみて気になる記述がありました。韓国の老舗の美術雑誌月刊美術のサイト(韓国語)で

1964~  東京オリンピック祝賀美展(東京)

1965   第8回東京ビエンナーレ国際展(東京)

19701973    Expo展(大阪)


 とあり、同様の情報はリュ・キョンチェの図録にも見ることができます。なぜこれが気になるかというと、毎日新聞社他主催の東京ビエンナーレ(正式名称は「日本国際美術展」)は、1970年の中原佑介企画による伝説的展覧会以外に歴史的・国際的な役割が知られていないからですし、1964年の東京オリンピックと1970年の日本万国博覧会(大阪万博)は、戦後日本の高度経済成長と国際化を世界に知らしめた巨大国家プロジェクトであり、それが東京や大阪に限らない都市改造を生み、美術を含む様々な文化領域に大きな影響を与えたからです。特に大阪万博は、1960年代初頭の「前衛」とされてきた美術家、建築家、デザイナー、音楽家が国や大企業の予算を湯水のように使える機会となり、よくも悪しくも1960年代文化の飽和点を示すものでした。しかし「高度成長期」として知られるこの時代にリュ・キョンチェのような韓国の抽象絵画が紹介されたというのは仄聞にして知らず、具体的にどういう展覧会だったのか調べたくなりました。

 私は1960年代の日本美術には詳しいほうで調べ方もだいたいわかりますが、手近な日本語資料やインターネット検索では出ません。しかし韓国語で検索すれば大阪万博の展覧会はあっさりわかりました(すると『月刊美術』の197073年というのはありえない)。ソウル大学大学院考古美術史学科美術専攻のソン・ヒョジンの書いた2012年の修士論文「失われた建築、満たされた空間 キム・スグンの1970年大阪万国博覧会韓国館研究」 (韓国語)PDFファイルがネット上で公開されていたのです。

 この論文によれば、大阪万博の韓国館は1階が入り口と舞踊場(ステージ)、3階が「現在展示室」、4階が「過去展示室」、通路で結ばれた2階建ての別棟の副展示室に「未来館」という構成になってました。現代絵画は本館「現在展示室」に、彫刻は屋外を含む館内各所に展示されました。絵画作家は、キム・インスン、キム・チャンラク、ナム・グァン、ト・サンボン、ソン・ウンソン、リュ・キョンチェ(ソン論文で「ユ・キョンチェ」と表記)、イ・ビョングン、イ・ボンリョル、チェ・ドッキュ(以上西洋画)、キム・ギチャン、パク・ノス、ソ・セオク、チャン・ウソン(以上東洋画)、ソン・ジェヒョン、ペ・キルギ(以上、書芸=書)でした。このうち当館で2013年に開催した「東京・ソウル・台北・長春─官展にみる近代美術」に出た作家もいるように、植民地からの解放後も韓国画壇で力をもっていた官展系の作家が主に選ばれています。しかし屋内での伝統美術のレプリカや伝統色の強い東洋画の展示と対照的に、韓国館建築は、キム・スグンによる、高さ30mの黒い円柱18本に囲まれ「製油工場みたい」と揶揄された超モダンなデザインでした(のち群青色、15本に変更、球体パーツを付加)。雑誌『空間』の編集者であり韓国固有の文化と世界文化の融合をめざしていたキム・スグンと、伝統色を出したい韓国政府との間には方向性の相違があったようです。そこで一般観衆に一番注目されたのが、「未来館」のパク・ソボ [1]による頭部のない連続する人体のインスタレーション《虚の空間/遺伝因子の空間》だったというのも政府の思惑に反したものだったかもしれません。

EXPO’70 パビリオンで展示されている万博会場ジオラマ。「太陽の塔」のすぐ隣に韓国館があったことがわかります。  

不評のデザイン、直前の展示担当の変更、施工の遅れなど様々な批判を受けた韓国館でしたが、オープン後は、会場中心にある岡本太郎の《太陽の塔》向かってすぐ左という好立地もあり、キム・スグンの大胆なデザインも好評だったようです。その反面、他のアジアからの出展国と同様、華やかでエキゾチックな各国の伝統舞踊や伝統文化の紹介の陰に隠れて、韓国の現代美術の展示がマスコミの報道や美術記事で注目された形跡を見つけることができません。それが残念なのは、この大阪万博は、巨大な集客力のあった日本でのイベントで初めてアジアの現代美術が紹介される機会だったからです[2]――後述のインドネシア館だけで入場者は700万人以上![3] 


そもそも大阪万博はアジアで初めて開かれる万国博覧会であり、アジア諸国が参加したのも初でした。アジアからはシンガポール、セイロン(現スリランカ)、ネパール、パキスタン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、香港、インド、インドネシア、タイ、韓国、中華民国(台湾)、フィリピン、ベトナム共和国(南ベトナム)が展示館で出展しました。中華人民共和国との国交回復前なので台湾が参加していること、戦争が激化していたベトナムは当然南ベトナムからの出展に見るように、宇宙開発でもしのぎを削っていた米ソが展示でも張り合っていた冷戦の時代(そして日本が「西側」に属していること)がわかる参加国でした。

大阪万博はこれらアジア諸国の芸術家にとっても国際的な発表の貴重な機会だったので、重要な芸術家が建築、公演、展示などで参加していました。たとえば東南アジア最大規模のインドネシア館(延べ床面積2216㎡)では、バンドン工科大学美術デザイン学部の作家たちが準備に携わり、27人の作品が展示されました。そこには当館も所蔵する近代美術の巨匠であるアファンディアグス・ジャヤアハマド・サダリスジョヨノシダルタカルトノ・ユドクスモポポ・イスカンダルという錚々たる美術家たちが展示しているのです[4]

セイロン(スリランカ)館の建築はトロピカル・モダニズムの第一人者として世界に知られるジェフリー・バワによるものでしたから、他のアジアからの参加国もどのような現代美術を見せていたか調べてみる価値がありそうです。さらに「万国博美術展」の「現代の躍動」セクションでは、チュグターイー(パキスタン)、イ・ウンノ(韓国)、クォン・オクヨン(クォン・オギョン、韓国)、リー・アギナルド(フィリピン)、リャオ・ショウピン(台湾)、リュイ・ショウカン(ルイ・ショウクワン、香港)が出品しています。このようにアジアの美術家たちが初めて華やかな国際舞台に出たことが、後年の、福岡市美術館のアジア展(つまり現在のアジ美)につながるらしいのですが、それはまた別の機会に。

 

さて、前述の日本でのリュ・キョンチェの展示のうち、以上に述べた大阪万博は容易にわかりましたが、私には「お手上げ」になったのは東京オリンピック記念展のほうです。

オリンピックはもともと文化行事の開催が必須でしたが、東京オリンピック記念美術展というのは聞いたことがありません。たまたま今年福岡県立美術館で開催されていた「1964—福岡県文化会館、誕生。」展で展示されたポスターがあり、正式の美術展示としては国立博物館で古美術、国立近代美術館で現代美術(どちらも所蔵品展でしょう)、ほか松屋デパートの写真展やスポーツ切手の展示がありました。また京都市美術館、根津美術館ほかで「オリンピック記念」「協賛」展示がありました。しかしこれらはみなオリンピックで日本を訪れる(「インバウンド」)外国人に見せることが主眼でしょうから日本の美術ばかり。では上記サイトの「東京」はまちがいでひょっとして韓国での開催では?と思い知人に問い合わせましたが、考えてみればこの1964年は翌年に締結される通称「日韓条約」締結への激しい反対運動[5]があった年で、韓国での開催は考えにくい。

そこでリュ・キョンチェを研究しているアン・テヨンさんに訊くと、「1964101024日 美術協会が東京の公執館で、約100点による『海外美術展』があり……民俗芸術団が派遣される」という東亜日報(1964101日)の記事を送ってくれました。これでは日本のメディアでの記録を調べるのは難しそう……

なおアン・テヨンさんにはリュ・キョンチェの日本以外のアジア各地での発表歴の情報も教えてもらいました。すると作家の履歴にあるように、1962年のマニラ、同年サイゴン(現ホーチミン)、1966年のクアラルンプールでの韓国美術展にリュ・キョンチェが出品したのは確かなようです。これらは韓国美術協会と韓国および相手国の国機関が協力して行ったもので、各国で韓国美術がどのように受け取られたのか、逆方向で韓国でも東南アジアの現代美術が紹介されたのか、いずれ調べてみたいです。

後述のように1965年には「日本国際美術展」に韓国が初出品し、さらに1968年には東京国立近代美術館で「韓国現代絵画展」が開かれているのも、当時韓国の美術家や政府が自国の美術を国際的に紹介しようという機運があったのかもしれません。韓国大使館が共催した1968年の展覧会で興味深いことのひとつは、油彩画・版画の作品のほとんどが抽象作品であって、2年後の大阪万博展のような官展系アカデミズム作品が一点もないことです。つまり韓国側が超モダンな建築とは相反するような伝統色を見せる万国博と、国際的な動向に対応した抽象傾向を見せる国立近代美術館展というように戦略を使い分けていたのかもしれません。もうひとつ気になるのは、東京国立近代美術館展のほうにはクァク・インシクが選ばれていますがリュ・キョンチェは出ていないことです。両方に出ている作家は、パリ在住の大御所ナム・グァンと、のちの韓国現代美術の国際化に大きな役を果たした「単色絵画」の巨匠であるパク・ソボの二人だけというのも、当時の韓国美術の力関係や国際戦略を感じさせて興味深いです。

  

最後に、リュ・キョンチェの出品歴にある「第8回日本国際美術展」を紹介します(この展覧会には日本在住のクァク・インシクも出品していました)。毎日新聞社と日本国際美術振興会の主催による同展[6]19655月に東京都美術館で開き、京都市美術館、高松市美術館、愛知県美術館、北九州市立八幡美術館、佐賀県立体育館、佐世保市教育会館ホール(つまり九州だけで3か所!)に巡回しています。

特集展示はピカソの版画とフランス彫刻。韓国からはクォン・ヨンウ(抽象絵画)、パク・ノス(東洋画・具象)、クァク・インシク、チェ・ヨンリム(洋画・具象)、パク・ハンソプ(洋画・具象)、ユ(リュ)・キョンチェ、チェ・キヨン(キウォン? 彫刻・抽象)。図録のリストにはないユン・ヒョンジュン(彫刻・抽象)は図版だけ掲載[7]

日本の出品作家が、洋画・日本画・版画・彫刻から当時の大御所作家と現代美術系作家が混在しているの同様、「現代美術」というジャンルが今ほど限定されていなかったことがわかります[8]

なおこの「日本国際美術展」にはインドが第3回展(1955)から継続出品しており、第5回展(1959)では巨匠M. F. フセインが毎日新聞社賞を、第6回展(1961)ではバル・チャーブタが東京都知事賞を、前述の第8回展(1965)ではシャンティ・ダヴェが毎日新聞社賞受賞というように、日本人評論家の眼を引く作品があったことがわかります。他の出品作家でも、ナンダラル・ボース、ジャミニ・ロイ(アジ美コレクションの子鹿ちゃんの作家)、サティーシュ・グジュラールビレン・デ、クリシェン・カンナら、インド美術の巨匠がぞろぞろ紹介されていました。

なおこの「日本国際美術展」が日本戦後美術史に不滅の名を残したのは、前述の、1970年の第10回展、「人間と物質」展です。中原佑介企画による、欧米各地と日本からコンセプチュアル・アート、「もの派」傾向、インスタレーション、パフォーマンスだけで構成した、当時としても世界最高水準と思われ、かつのちの日本における無数の国際展でもありえない、まさに空前絶後の驚異的な展覧会でしたが、これ以後の「日本国際美術展」には国別出品がなくなり、アジア作家は第15回(1984年)のインド美術の特集展示だけになります[9]

この間の1979年から福岡市美術館でインド、80年から韓国を含むアジア美術の紹介が始まるわけですが、「現代美術」というジャンルが未分化な1960年代だからこそインドや韓国の作家にも日本で展示する機会があったというのは皮肉なことかもしれません。そしてもうひとつの皮肉は、韓国が初参加だった上述の第8回展が京都市美術館で開催中の622日に日韓基本条約が締結され、その協議の過程で、前述のような韓国での日本と韓国政府両方への激烈な反対運動が起こっていたことです。

 

ここで紹介したユ・キョンチェが展示した日本での三つの展覧会には、東京オリンピック、日韓基本条約、そして大阪万博という、それぞれの経済成長と国際化へと強引につきすすんでいった時代が、そして自国の美術を世界にうちだす野心と戦略が見えてきます。そのなかで韓国美術界の頂点をきわめていたリュ・キョンチェ[10]と、東京で内省的な作品の実験を続けていたクァク・インシクがそれぞれどのような思いを日韓関係に抱いていたか、また当時の日本の観衆・メディア・評論家が韓国作家の作品をどのように見たかは今後の宿題としておきます(誰の?)。


(学術交流研究員 黒田雷児)

2022.1.15写真追加



[1] パク・ソボといえばアジ美でも所蔵する「単色絵画」の代表作家ですが、1960年代後半のアンフォルメルと単色絵画の間の時代にはややポップな作品や幾何学的抽象の時代があったのです。

[2] 1965年に香港のキャセイ航空主催による史上初?のアジア現代美術展がありましたが(東京、大阪ほか福岡にも巡回)、当時の美術界では注目されなかったようです。同展については2016年にアジ美レジデンス研究者だったパン・ルーの論文 Imagining Asia through “Tour of the Orient”: Cathay Pacific’s “Contemporary Art in Asia” Exhibition in 1965を参照。

[3] ディクディク・サヤディクムラッ(孔井美幸訳)「大阪万博 インドネシア館の記録」、『EXPO'70 大阪万博の記憶とアート』(大阪大学総合博物館叢書18)、大阪大学出版会、2021年、p. 36

[4]
 Dr. Dikdik Sayahdilkumulla, M. Sn. The "Modern Art" Exhibition Indonesian Pavilion at Osaka Expo 大阪万博インドネシア館における「美術」展示 The Japan Foundation Asia Center Asia Fellowship Report, 2016. 

[5] 「韓国における日韓会談反対運動は、日韓両政権が、国民の意思に基づいた植民地過去清算を行わず、『経済協力』や『援助』という美名のもとで日韓関係を早急に正常化しようとすることに対する異議申し立ての行動であった。特に、韓国での日韓会談反対運動は、韓国政権が植民地支配に対する謝罪や責任を追及できていないことに憤慨し、反政府運動の様相を見せながら高まっていった。」李美淑(イ・ミスク)『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』(東京大学出版会、2018年)、p.88

[6] この展覧会についての書籍『日本国際美術展と戦後美術史 その変遷と「美術」制度を読み解く』(創元社、2017)の著者、山下晃平さんに資料を送っていただきました。またクァク・インシクの研究者である東京藝術大学大学院美術研究科のパク・スンホンさん提供の資料も参照させていただきました。山下さん、パクさん、およびリュ・キョンチェ資料をご提供いただいたアン・テヨンさんに御礼申し上げます。

[7] 出品作家数・点数は資料によって食い違いがあります。平野重臣による後年の略年譜では8作家13点ですが、開催当時の小冊子によれば7作家9点。

[8] 日本美術界でも、1960年代後半から、洋画・日本画の大御所ではなく現代美術のトップランナーをヴェネチア・ビエンナーレなど国際展に紹介していくように方向転換をしています。

[9] 「アジア絵画との出会い 伝統と現代を考える」展の一環の「インド現代美術展」として福岡市美術館に巡回(198410-11月)。

[10] 大韓民国芸術院会長、大韓民国美術展覧会運営委員長・審査委員、韓国美術協会顧問などを歴任。 


2021年11月13日土曜日

おうちで知りたいアジアのアート Vol. 12 「わが黄金のベンガルよ」展によせて-2 (美術批評篇) モハマド・ユヌス作品に見る文明批評

前回には日本留学のバングラデシュ作家がほとんど「洋画」の領域で発表し、その抽象絵画には特有の傾向があることを指摘しました。しかし個々の作品を子細に見て、作家の意図を追求していけば、抽象的な作品にも奥深いテーマがひそんでいることもあります。
 現在アジアギャラリーの「アジアのモダニズム」コーナーで展示しているモハマッド・ユヌスの絵画は、1989年に行動美術展で最高賞を受賞するという評価を受けた作品として福岡市美術館に収蔵されています(のちアジ美に移管)。この当館所蔵のバングラデシュ作家による絵画としては最大の作品について作家からメールで制作意図をうかがうことができたので、以下に紹介します。

モハマッド・ユヌス《Step by Step》 1989 油彩・画布
Mohammad Eunus 《Step by Step》 1989 oil on canvas
182.2×275cm

 画面全体を支配するのは、前述のようなバングラデシュ作家が好むオートマティズム的な、形になりそうで形にならない平面の広がりですが、そこには陰影をほどこして立体的に見える不思議な形態が埋め込まれています。ヒントとなるのは「Step by Step」という題名と、中央に書かれた文字で、判読しにくいですが、「From that we had civilized / But now we are going back to that Dark age」すなわち「われわれはあれから文明化した/しかし今われわれは暗黒の時代にもどりつつある」と書いてあります。
 その上には、原始時代の人間の住処だった洞窟を示す三つのアーチ型があり、それぞれに多数の釘のようなものが描かれています。よく見れば左が白く、右のほうが黒くなっています。この釘は機械化した人間を表し、上記の言葉からすれば、文明化に逆行する人間の堕落を示すようです。
 文字の下には、画面全体を横切る赤い紐に吊るされた三つの物体が描かれ、それは「飲み水を容れたり、洞窟に絵を描くための動物の脂肪や血を容れる保存容器であり、楽器にもなる」動物の角(つの)だと作家はいいます。
 そのさらに下には、猿と何かの動物に見える形態があり、石器時代の人間を表します。
 右下の三角形は石のナイフからきており、引っかいたような線描とともに洞窟に住む文明化以前の人間の生活を表しているようです。
 また中央やや左で垂直に延びる線は、自然破壊により葉を失った木を表しています。

 以上のように、全体の暗鬱な色調や、構築しながら崩壊するような形態は、文明の進歩が人間の機械化や自然破壊に至るというパセティック(悲観的)なテーマに合ったものといえます。では「Step by Step」はどのように解釈できるでしょうか。文字通りに訳せば「一歩ずつ」人間は文明化してきたということですが、上記のように作品のメッセージは進歩を信仰する楽観主義とは反対であり、文明化は実は原始時代の野蛮への退行でもあるという警告でもありますから、「文明の段階」というように進歩と退歩の両方の意味をもたせたほうがいいでしょう。

 今の世界は社会的・経済的な統制やワクチン開発・治療という人類の知を総動員して新型コロナウイルスによる破滅を避けようとしています。日本では急激に感染者が減っていますが、世界各地ではいったんおさえこんだ感染がまた急増している地域もあります。またコロナとの闘いのなかで浮かび上がってきたのは、各国の政策(それを支える政治体制や民主主義のあり方)の大きな違いであり、株式市場で大きな利益をあげる者と職を失なった非正規労働者との経済格差、リモートワークができる会社員と、現場仕事が不可欠のエッセンシャル・ワーカーとの差であり、また感染者やアジア系への不当な差別や暴力です。コロナ禍を別にしても、長くきびしい闘いによって勝ちとられてきた民主主義を強権や暴力で押しつぶす動きも目立ってきています。全世界が協力して医学、政治学、経済学等の最先端の知と制度を駆使しながらも避けることのできない原始的野蛮への転落の恐れは、このユヌス作品のメッセージと無縁ではないようです。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノのあまりにも有名な言葉ですが(注1)、アドルノが一貫して警鐘を発してきたのは、人間による自然の支配とともに、文化批判もまた文化から利益を引き出す資本主義のシステムから免れないことでした。日本で学び制作活動をしたユヌスが、《Step by Step》で文明史的な視野から現代社会の野蛮への転落に対して警鐘を発していたのは1989年、まさに日本の「バブル経済」真っ盛り。コロナ禍を経た今の日本では、もはや資本主義原理による「発展」への信仰は失われ、社会の分断がいつまた「野蛮」を噴出させるかわからない時代。そういうときに、日本とは著しく異なる文化圏から来た美術家が32年前に発した警鐘を思い起こしてもいいのではないでしょうか。

 ユヌスはあるインタビューで、透明な絵の具の層を何層にも重ねながら、一番下の層を含めてすべての制作過程が見えることを重視しているといいます(注2)。また同じインタビューではこのように述べています。「壁の絵を描けば、時間のことを考える。その壁は何10年も前からあって、その間に起こったあらゆることの痕跡を残している。だから壁は見た目だけでなく物質的な手触りも歴史を語っている。私の作品はそういう経験からきている。」――この言葉は、《Step by Step》における、水彩画のように溶解して広がる面にただよう不定形と、そこに三次元的に浮かび上がる物体の併存をよく説明しています。そしてまた、ユヌスの作品もまた、何かの歴史を遠く離れた地域と時代の観衆に伝える「壁」であることも。
(学術交流専門員 黒田雷児)


注1
「文化批判と社会」(1949年)、テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメン』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1996年)、p.36

注2
"Mohammad Eunus’s refashioning of abstraction," New Age, April 7, 2021. 



2021年10月24日日曜日

おうちで知りたいアジアのアート Vol. 11 「わが黄金のベンガルよ」展によせて-1(美術史篇) 日本で学んだバングラデシュ作家たち

今年はバングラデシュ独立50周年で、それを記念して当館でもバングラデシュ作品を主とするコレクション展「わが黄金のベンガルよ」 を開催中(12/25まで)。


バングラデシュはアジアのなかでも観光資源が乏しいせいか、日本人にはなじみのない国かもしれません。たとえば日本でよく知られた海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」では、インド篇は1979年に欧米篇の市販が始まってまもない1981年にシリーズ初の’82-’83版が刊行されているのに対し、バングラデシュ篇はそれから30年近く後、2010年刊の’11-’12版が最初です(注1)。しかし、アジ美の所蔵品数では、リキシャ関係やポスターなどの大衆美術が多いため、インド(1099点)、中国(993点)に続いて3位の276点です(2021年6月現在)。しかも福岡市美のアジア展やアジ美の事業以外でも、美術分野で意外にバングラデシュは日本とのつながりはあります。
注1 「地球の歩き方 バングラデシュ ’11-’12」には当館五十嵐理奈学芸員が執筆したコラム「大地が育む鮮やかな色彩 工芸とアート」を掲載。アートカフェの明治通り側旅行ガイドコーナーに配架しています。

現在「アジア美術」を冠した国際展には台中の国立台湾美術館によるビエンナーレ(亞洲藝術雙年展)がありますが、最も早く「アジア美術」の継続的な国際展を開いたのは、1980年の福岡市美術館による「アジア現代美術展」(1985年から「アジア美術展」)の翌年に、福岡モデルに学んで開催された、バングラデシュ・アジア現代美術展なのです(1983年から「バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレ」として継続)。ちなみにその1981年の展覧会に招かれたのは、ブータン、中国、インド、インドネシア、日本、クウェート、北朝鮮、韓国、マレーシア、ネパール、パキスタン、スリランカ、タイ、バングラデシュの美術家でした(注2)。隣国のインドで1968年から始まった「インド・トリエンナーレ」がアジア地域限定でなかったのと比べると。バングラデシュの主催者のほうが「アジア」意識(野心?)が強かったといえます。1981年展の図録にはこうあります。「この芸術祭が目指す目的は、活気があり人気のある美術を一堂に会し、実り豊かなアジアの協働の場とすることである。」(バングラデシュ・シルパカラ・アカデミー事務局長サイド・ジルール・ラーマン)
注2 前年の福岡市美術館のアジア現代美術展と比べれば、日本(福岡)にあってバングラデシュにない国はシンガポールとフィリピン。バングラデシュにあって福岡にない国はブータン、クウェート、北朝鮮。両国のアジア観や政治的スタンスの違いによるのでしょうか…
 
 日本とのかかわりでは、在バングラデシュ日本大使館のウェブサイトに掲載されたデータによれば、1955年から2013年の間に文部科学省の奨学制度で来日したバングラデシュ人は3,236人。そのうち2007年までの留学生の1.83%が美術・音楽・演劇を学んでいます。美術を学ぶために留学した人となると数としては少ないようですが、バングラデシュの首都ダッカで仕事をするときには下記で紹介する日本留学経験のあるアーティストが目立ち、現地での日本作家の制作活動を助けてくれたこともあります。

 インド・パキスタンの独立以後で、バングラデシュ近代美術と日本とのかかわりを示す事績は、東パキスタン時代の1956~7年、南アジア近代美術史の巨匠といえるザイヌル・アベディン(Zainul Abedin、1914~1976)の来日です。彼はロックフェラー奨学金により1年かけて世界各地を旅しますが、最初に訪れた日本には2か月滞在し、その間、東京の大丸デパートで個展を開催しています。その展覧会は日本美術家連盟と毎日新聞社が後援しており、同連盟が担っている国際造形芸術連盟(International Association of Plastic Arts, IAPA 注3)日本委員会がアベディンを招いて歓迎の懇談会をしています。
 日本で美術を学んだ作家として最も早いのは、モハメド・キブリア(Mohammad Kibria、1929~2011 以下リンクは「わが黄金のベンガルよ」展示作家)で、彼は1959~62年に東京藝術大学で絵画を学び、また萩原英雄から木版画の指導を受けています。キブリアは1960年に東京の養清堂画廊、63年に美松書房画廊で個展を開いただけでなく、第1回アジア青年美術家展(1957年)、第2回東京国際版画ビエンナーレ(1960年)、第5回現代日本美術展(1962年)など日本でもしばしば発表しました。
注3 1963年から英語名称をInternational Association of Artに変更(ただし日本美術家連盟がIAAを使用するのは1965年以後。『連盟ニュース』142(1965年5月)による。このIAAはのち福岡におけるアジア美術展の創設に大きな役を果たすことになる。

 1971年のバングラデシュ独立後では、1975にカジ・ギャスディン(Kazi Ghiyasuddin、1951~)が文部省国費留学生として来日し、1985年には東京藝術大学で外国人留学生として初めて博士号を取得しています。日本での発表は、二紀会展や安井賞展ほか、ギャラリーでの個展は50回を超え、日本語での画集も数冊出版されています(注3)。そのためギャスディンは日本で最もよく知られたバングラデシュ作家といえるでしょう。福岡とのかかわりでは、第2回アジア展(1985年)に出品、福岡市美時代に水彩画を2点、アジ美時代に油彩画を2点収蔵しています。
注3 『ベンガルの魂―カジ ギャスディン画集』(日本放送出版協会、1986年)、『自然の音―ベンガルの魂』(筑摩書房、1998年)ほか 

 次に、モハマド・カムルル・ハッサン・カロン(Md Qamrul Hasan Qalon 1949-2003)が1979年に国際交流基金の短期招聘で来日して、やはり東京藝大で学び、同年に東京のギャラリーで個展を開催しています。ウェブサイトによれば1990年に路上でパフォーマンスをする意欲的な作家だったようですが、故人であるため詳細は不明。アジ美にも作品が残されています。

 1980年代に入ると、マームドゥル・ハク (Mahmudul Haque 1945~)が1981年から1984まで筑波大学で版画を学んでいます。福岡市美術館の第2回アジア美術展(1985年)に版画を出品。

 モハマッド・ユヌス(Mohammad Eunus、1954~)は1985年に来日し、多摩美術大学大学院で宮崎進に学びます。このユヌスは行動美術展に出品を続け、1986年に奨励賞、1987年に新人賞、そして1989年行動美術賞(その受賞作品が次回に紹介する当館所蔵品です)と、評価を高めていきました。1989年の第3回アジア美術展(福岡市美術館)にも出品しました。

 1991年からは日本の文部省の国費留学生としてG.S.コビール(G. S. Kabir、1960~ 作家は「カビール」を使うが、アジ美ではベンガル読みを採用)が来日、京都市立芸術大学、成安造形短期大学、愛知県立芸術大学、東京藝術大学で学び、東京藝大で博士号を取得しています。愛知での指導教官は笠井誠一、東京では大沼映夫と羽生出(はにゅう・いづる)。コビールは第3回アジア美術展(1989年)で、抽象絵画が主流だった当時のバングラデシュ美術では珍しく、シルクスクリーン技法により写真イメージを取り入れた鮮烈な作品を出品して注目されました(そのうち1点は「わが黄金のベンガルよ」で展示中)。奇しくも同じ第3回アジア美術展に出た山本富章は同じ愛知芸大の先生で、櫃田伸也らとともにコビールのお気にいり作家のひとりでした。1996年には名古屋画廊の支援により横浜美術館のギャラリーで個展を開いています。筆者は、1995年の第7回バングラデシュ・ビエンナーレの日本作家コミッショナーを務めたとき、ビエンナーレ参加が決まっていた山出淳也と、大分の由布院駅のギャラリーでのコビールの個展を見に行って、現地での情報を教えてもらったことがあります。

 1993年からはマームドゥル・ハクの弟のモスタフィズル・ハク(Mostafizul Haque、1957~)が兄と同じ筑波大学で日本画を学んでいます。私が国際交流基金の依頼で前述のバングラデシュ・ビエンナーレの日本作家コミッショナーとして3人の作家(風倉匠、阿部守、山出淳也)の現地制作をおこなったときに、このモスタフィズル・ハクに現地コーディネーターを務めていただき、日本とバングラデシュの日用品を交換するという山出のプロジェクトを含めたアシスタントや材料の手配、展示作業などで大活躍してくれたのは忘れがたいです。

 さらに近年では、フィロズ・マハムド(Firoz Mahmud、1974~)が多摩美術大学(2005~2007年)と東京藝大(2008~11年)で学び、新世代の作家らしく歴史的な図像を引用した絵画やインスタレーションを発表しています。彼の多摩美の先生はリー・ウーファン(李禹煥、イ・ウーファン)と建畠晢(あきら)、芸大で木幡和枝、坂口寛敏、近藤健一ら。日本国内の主要な国際展である越後妻有トリエンナーレ(2009、Dynamo Art Project)、あいちトリエンナーレ(2010年)、瀬戸内トリエンナーレ(2013、BD Project)に招待出品するという高い評価を得ました。

 1988年には目黒区美術館区民ギャラリーで「バングラデシュ現代美術展」が開かれ、上記のキブリア、ギャスディン、ハク、ユヌス、コビールを含む22人の作品が展示されました(注4)。またモハマッド・ユヌスが行動美術展で受賞を重ね、G.S.コビールがいくつかの絵画コンクールで受賞しているものの、フィロズ・マハムドのように大型国際展で招待出品した例は他になく、日本ではバングラデシュ作家はほぼ「洋画」の業界で活動してきたといえます。そのことは、カジ・ギャスディンの日本での指導教官は野見山暁治で、お気に入り作家は麻生三郎と猪熊弦一郎だったのに対し、フィロズ・マハムドは同じ質問に対し、小澤剛、田中功起、小泉明郎、CHIM↑POM、森村泰昌という国際的な現代アートのスター作家があがり、人脈と世代の大きな違いを感じさせます。
注4 在日バングラデシュ大使館、国際交流基金、目黒区教育委員会の主催。このときに最年少で出品したのがアジ美で個展を開いたニルーファル・チャマンでした。

 作品においても、版画技法を取り入れたコビール作品や、フィロズ・マフムドの政治的主題のインスタレーションを除いて、日本で学んだバングラデシュ作家には、絵の具の自然な流れによる意図せざる形態を利用したオートマティズム的抽象絵画が主流であり、先端的な技術や政治性を重視する現代アート界から注目されにくかったのでしょう。しかし2002年にも東京のヒルサイドギャラリーでキブリアが個展を開いているほか、留学後も日本に住んだギャスディンやコビールのようにギャラリーの支援により多数の個展を開いているのは、彼らの作品が日本人の感性に響くものがある証拠でしょう。
(つづく)

(学術交流専門員 黒田雷児)
20211219修正