2021年12月25日土曜日

ワークショップ「マスキングでインドの文様を作ろう!」を開催しました。

 

 さる11月27日・28日に、ワークショップを開催しました。このワークショップは、6月21日から9月21日までアジアギャラリーで開催していた展覧会「あじびレジデンスの部屋 第2期『つくってふれてアジアの文化』」の関連イベントとして、当初、8月末に開催予定でしたが、新型コロナ感染症の影響で延期されていた催しです。当時の応募者が多数だったため、実施日を一日増やす形で2日間にわたって行いました。


 ワークショップは、2017年に当館で滞在制作をおこなったインドのアーティスト、クルパ・マーヒジャーさんが当時開催したプログラムを体験する内容になっており、ワークショップの講師は筆者が務めましたが、クルパさんは今回のためにインドの文様や制作プロセスについてスライドを作成しておくってくれました。そしてワークショップの最後には、クルパさんとオンラインで結んで作品についてのコメントしてもらい、参加者との交流をはかりました。


           手順を説明

           文様を下描き

           液体ゴムでマスキング

 参加くださった方の中には、マスキングテープを使った創作と勘違いしていた方もいましたが、液体ゴムを使ったマスキングの技法を楽しんでくれていました。

           上から絵の具を着彩


      絵の具が乾いてから液体ゴムを剥がす作業は、結構盛り上がりました。



        インドのクルパさんから作品のコメントをもらいました。




 終了後のアンケートでは、
・オンラインでインドと繋がって、クルパさんと直接お話ができたことに感動しました。
 コロナ渦ならではかとも思いましたが、今後もこのように世界中のアーティストと繋がれる可能性があると思うと、少し明るい気分になれました。
・液体ゴムを使って行うということで、自分では思いもつかない方法だったので、とても興味深かった。
・大人になると、何かひとつのことに集中することが減ってきますが、時間が足りないくらい集中できて、完成した後の気持ちいい疲労感がなんとも言えず、また作ってみたいなと思っています。
・また、クルパさんとオンラインで交流できたことも、直接お話を伺うこともできたので、貴重な体験になりました。

といった、非常に励まされるコメントをいただきました。
 今年はコロナ禍でアジアからアーティストの招聘はできませんでしたが、かつての滞在アーティストと再びこのような形で一緒に創作活動を行うことができたことは、今後のレジデンス・プログラムについて考えていく上でも意義深い経験となりました。
 ご参加くださった方々、クルパさん、本当にありがとうございました。                
                               (学芸課 K.M.)











2021年12月6日月曜日

日本経済新聞内「美の粋」にて、福岡アジア美術館のベトナム作品4点が取り上げられました!

 少し遅れての報告になってしまいますが、先日1121日の日本経済新聞日曜版NIKKEI The STYLE内の「美の粋」というコーナーで、当館所蔵のベトナム作品4点を取り上げていただきました。

テーマが「ベトナム戦争のころ(下)」ということで、絹絵の巨匠グエン・ファン・チャンの《籐を編む》(1960年)およびベトナム戦争ポスターのファム・ヴィエット・ホン・ラム《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》(1972年)、グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》(1972年)、ファム・ミン・チー《人民に永遠の春をもう一度》(1975年)など、今回紹介された作品はいずれも1960年代から1970年代にかけて、ベトナム戦争に揺れる激動の時代に当時のベトナム民主共和国(北ベトナム)で制作されたものです。


グエン・ファン・チャン《籐を編む》1960年

ファム・ヴィエット・ホン・ラム
《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》1972年

グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》1972年

ファム・ミン・チー《人民に永遠の春をもう一度》1975年

ちなみに本記事の一週間前に掲載された前編「ベトナム戦争のころ(上)」では、同時代のアメリカの現代美術、すなわち1950年代から60年代にかけてニューヨークで隆盛を極めたポップ・アートが取り上げられています。戦争の渦中でしのぎを削っていたベトナムとアメリカ。両者のコンテクストを掘り下げて、当時のそれぞれの美術を再考する企画というわけです。


さて、当館所蔵作品の特集に戻りますが、農村の女性たちが籠を編む穏やかな風景を描いたグエン・ファン・チャンの絹絵と、戦意高揚を明確に意図した力強いプロパガンダポスターが、同時代の美術として並んでいるのは一見奇妙に思えるかもしれません。

しかし、当時ベトナム民主共和国(北ベトナム)を率いていたベトナム共産党は、美術作品において描かれるべき主題は「労働者・農民・兵士」であるとして、芸術家たちにその方針に沿った制作を要請しました。一方グエン・ファン・チャンは、フランス植民地統治下であった学生時代から一貫して穏やかな農村の暮らしを描き続けてきた画家です。また、「絹絵」はそもそもベトナム近代において「創られた伝統」として誕生した絵画ジャンルであり、誕生以来常に「ベトナムらしさ」と結びつけられてきました。すなわち、ファン・チャンの《籐を編む》においては、絹絵という東洋的な素材、そして農村の日常に美を見いだす画家の姿勢が、当時の政権が目指した国家の理想的イメージと合致するものだったのです。

一方、戦争ポスターについては、「プロパガンダポスターなんてどれも似たようなものだろう」というイメージをお持ちの方もいるかもしれません。たしかに、迅速に大量のポスターを制作し続けることが要求される状況下では、同じ構図やモチーフを繰り返し用いることも多々あります。しかし、同じ民族同士が殺しあう悲しみを描いたファム・ヴィエット・ホン・ラム《ベトナム化戦争の悲劇(ベトナム対ベトナム)》には、戦意高揚だけではない、おそらくは画家個人の戦争に対する葛藤の念を見いだすことができますし、グエン・ニ・ザオ《ディエンビエンフーの勝利をもう一度》の陰影表現には、学生も多く動員されたポスター制作の現場で、技術を磨いていった若き画家の試行錯誤の跡が窺えます。大量生産といえども、1970年代初頭まで手描きでの制作が中心だったポスター制作の現場には、個々の画家たちの努力や創意工夫の痕跡が残っているのです。


著作権の関係上、記事本文や紙面の画像はこちらに載せることができませんが、見開き・カラー図版でたっぷりと特集していただいているので、もし興味を持っていただけましたら、今からでもぜひ図書館等で記事をチェックしていただけると嬉しいです!(学芸員K

2021年12月3日金曜日

おうちで知りたいアジアのアート Vol. 13  東京オリンピックと大阪万博のリュ・キョンチェ ――アジア美術国際化のはじまり

1225日まで「あじびコレクションX―③ 越境する美術家―郭仁植(クァク・インシク)と柳景埰(リュ・キョンチェ) 」で展示しているリュ・キョンチェの作品《季節》は、どちらも当館所蔵の韓国作品で最も古い1962年の制作になります。

韓国は全アジアでも現代的な表現の美術が早くから展開し、1975年に東京画廊で「五つのヒンセク〈白〉 韓国5人の作家」が日本における最初の「単色絵画」の紹介として知られています。そのために、福岡市美術館でも「単色絵画」が収蔵され、それらは国際的な批評眼にも耐える独自性をもつ韓国美術の代表として今や美術市場で驚くべき高額で売買されるようになりました。しかしその反面、アジ美では東南アジアやインドの「近代美術」コレクションが充実しているのに対し、20世紀初頭から展開した韓国の「近代美術」は1点も収集できておらず(戦争などであまりに多くの作品が失われ、美術市場に重要作品が出ることはほとんどない)、その意味でも1962年のクァク・インシクとリュ・キョンチェ作品は(作品も人生も対照的ですが)貴重といえます。

 さて、このリュ・キョンチェの履歴を調べてみて気になる記述がありました。韓国の老舗の美術雑誌月刊美術のサイト(韓国語)で

1964~  東京オリンピック祝賀美展(東京)

1965   第8回東京ビエンナーレ国際展(東京)

19701973    Expo展(大阪)


 とあり、同様の情報はリュ・キョンチェの図録にも見ることができます。なぜこれが気になるかというと、毎日新聞社他主催の東京ビエンナーレ(正式名称は「日本国際美術展」)は、1970年の中原佑介企画による伝説的展覧会以外に歴史的・国際的な役割が知られていないからですし、1964年の東京オリンピックと1970年の日本万国博覧会(大阪万博)は、戦後日本の高度経済成長と国際化を世界に知らしめた巨大国家プロジェクトであり、それが東京や大阪に限らない都市改造を生み、美術を含む様々な文化領域に大きな影響を与えたからです。特に大阪万博は、1960年代初頭の「前衛」とされてきた美術家、建築家、デザイナー、音楽家が国や大企業の予算を湯水のように使える機会となり、よくも悪しくも1960年代文化の飽和点を示すものでした。しかし「高度成長期」として知られるこの時代にリュ・キョンチェのような韓国の抽象絵画が紹介されたというのは仄聞にして知らず、具体的にどういう展覧会だったのか調べたくなりました。

 私は1960年代の日本美術には詳しいほうで調べ方もだいたいわかりますが、手近な日本語資料やインターネット検索では出ません。しかし韓国語で検索すれば大阪万博の展覧会はあっさりわかりました(すると『月刊美術』の197073年というのはありえない)。ソウル大学大学院考古美術史学科美術専攻のソン・ヒョジンの書いた2012年の修士論文「失われた建築、満たされた空間 キム・スグンの1970年大阪万国博覧会韓国館研究」 (韓国語)PDFファイルがネット上で公開されていたのです。

 この論文によれば、大阪万博の韓国館は1階が入り口と舞踊場(ステージ)、3階が「現在展示室」、4階が「過去展示室」、通路で結ばれた2階建ての別棟の副展示室に「未来館」という構成になってました。現代絵画は本館「現在展示室」に、彫刻は屋外を含む館内各所に展示されました。絵画作家は、キム・インスン、キム・チャンラク、ナム・グァン、ト・サンボン、ソン・ウンソン、リュ・キョンチェ(ソン論文で「ユ・キョンチェ」と表記)、イ・ビョングン、イ・ボンリョル、チェ・ドッキュ(以上西洋画)、キム・ギチャン、パク・ノス、ソ・セオク、チャン・ウソン(以上東洋画)、ソン・ジェヒョン、ペ・キルギ(以上、書芸=書)でした。このうち当館で2013年に開催した「東京・ソウル・台北・長春─官展にみる近代美術」に出た作家もいるように、植民地からの解放後も韓国画壇で力をもっていた官展系の作家が主に選ばれています。しかし屋内での伝統美術のレプリカや伝統色の強い東洋画の展示と対照的に、韓国館建築は、キム・スグンによる、高さ30mの黒い円柱18本に囲まれ「製油工場みたい」と揶揄された超モダンなデザインでした(のち群青色、15本に変更、球体パーツを付加)。雑誌『空間』の編集者であり韓国固有の文化と世界文化の融合をめざしていたキム・スグンと、伝統色を出したい韓国政府との間には方向性の相違があったようです。そこで一般観衆に一番注目されたのが、「未来館」のパク・ソボ [1]による頭部のない連続する人体のインスタレーション《虚の空間/遺伝因子の空間》だったというのも政府の思惑に反したものだったかもしれません。

EXPO’70 パビリオンで展示されている万博会場ジオラマ。「太陽の塔」のすぐ隣に韓国館があったことがわかります。  

不評のデザイン、直前の展示担当の変更、施工の遅れなど様々な批判を受けた韓国館でしたが、オープン後は、会場中心にある岡本太郎の《太陽の塔》向かってすぐ左という好立地もあり、キム・スグンの大胆なデザインも好評だったようです。その反面、他のアジアからの出展国と同様、華やかでエキゾチックな各国の伝統舞踊や伝統文化の紹介の陰に隠れて、韓国の現代美術の展示がマスコミの報道や美術記事で注目された形跡を見つけることができません。それが残念なのは、この大阪万博は、巨大な集客力のあった日本でのイベントで初めてアジアの現代美術が紹介される機会だったからです[2]――後述のインドネシア館だけで入場者は700万人以上![3] 


そもそも大阪万博はアジアで初めて開かれる万国博覧会であり、アジア諸国が参加したのも初でした。アジアからはシンガポール、セイロン(現スリランカ)、ネパール、パキスタン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、香港、インド、インドネシア、タイ、韓国、中華民国(台湾)、フィリピン、ベトナム共和国(南ベトナム)が展示館で出展しました。中華人民共和国との国交回復前なので台湾が参加していること、戦争が激化していたベトナムは当然南ベトナムからの出展に見るように、宇宙開発でもしのぎを削っていた米ソが展示でも張り合っていた冷戦の時代(そして日本が「西側」に属していること)がわかる参加国でした。

大阪万博はこれらアジア諸国の芸術家にとっても国際的な発表の貴重な機会だったので、重要な芸術家が建築、公演、展示などで参加していました。たとえば東南アジア最大規模のインドネシア館(延べ床面積2216㎡)では、バンドン工科大学美術デザイン学部の作家たちが準備に携わり、27人の作品が展示されました。そこには当館も所蔵する近代美術の巨匠であるアファンディアグス・ジャヤアハマド・サダリスジョヨノシダルタカルトノ・ユドクスモポポ・イスカンダルという錚々たる美術家たちが展示しているのです[4]

セイロン(スリランカ)館の建築はトロピカル・モダニズムの第一人者として世界に知られるジェフリー・バワによるものでしたから、他のアジアからの参加国もどのような現代美術を見せていたか調べてみる価値がありそうです。さらに「万国博美術展」の「現代の躍動」セクションでは、チュグターイー(パキスタン)、イ・ウンノ(韓国)、クォン・オクヨン(クォン・オギョン、韓国)、リー・アギナルド(フィリピン)、リャオ・ショウピン(台湾)、リュイ・ショウカン(ルイ・ショウクワン、香港)が出品しています。このようにアジアの美術家たちが初めて華やかな国際舞台に出たことが、後年の、福岡市美術館のアジア展(つまり現在のアジ美)につながるらしいのですが、それはまた別の機会に。

 

さて、前述の日本でのリュ・キョンチェの展示のうち、以上に述べた大阪万博は容易にわかりましたが、私には「お手上げ」になったのは東京オリンピック記念展のほうです。

オリンピックはもともと文化行事の開催が必須でしたが、東京オリンピック記念美術展というのは聞いたことがありません。たまたま今年福岡県立美術館で開催されていた「1964—福岡県文化会館、誕生。」展で展示されたポスターがあり、正式の美術展示としては国立博物館で古美術、国立近代美術館で現代美術(どちらも所蔵品展でしょう)、ほか松屋デパートの写真展やスポーツ切手の展示がありました。また京都市美術館、根津美術館ほかで「オリンピック記念」「協賛」展示がありました。しかしこれらはみなオリンピックで日本を訪れる(「インバウンド」)外国人に見せることが主眼でしょうから日本の美術ばかり。では上記サイトの「東京」はまちがいでひょっとして韓国での開催では?と思い知人に問い合わせましたが、考えてみればこの1964年は翌年に締結される通称「日韓条約」締結への激しい反対運動[5]があった年で、韓国での開催は考えにくい。

そこでリュ・キョンチェを研究しているアン・テヨンさんに訊くと、「1964101024日 美術協会が東京の公執館で、約100点による『海外美術展』があり……民俗芸術団が派遣される」という東亜日報(1964101日)の記事を送ってくれました。これでは日本のメディアでの記録を調べるのは難しそう……

なおアン・テヨンさんにはリュ・キョンチェの日本以外のアジア各地での発表歴の情報も教えてもらいました。すると作家の履歴にあるように、1962年のマニラ、同年サイゴン(現ホーチミン)、1966年のクアラルンプールでの韓国美術展にリュ・キョンチェが出品したのは確かなようです。これらは韓国美術協会と韓国および相手国の国機関が協力して行ったもので、各国で韓国美術がどのように受け取られたのか、逆方向で韓国でも東南アジアの現代美術が紹介されたのか、いずれ調べてみたいです。

後述のように1965年には「日本国際美術展」に韓国が初出品し、さらに1968年には東京国立近代美術館で「韓国現代絵画展」が開かれているのも、当時韓国の美術家や政府が自国の美術を国際的に紹介しようという機運があったのかもしれません。韓国大使館が共催した1968年の展覧会で興味深いことのひとつは、油彩画・版画の作品のほとんどが抽象作品であって、2年後の大阪万博展のような官展系アカデミズム作品が一点もないことです。つまり韓国側が超モダンな建築とは相反するような伝統色を見せる万国博と、国際的な動向に対応した抽象傾向を見せる国立近代美術館展というように戦略を使い分けていたのかもしれません。もうひとつ気になるのは、東京国立近代美術館展のほうにはクァク・インシクが選ばれていますがリュ・キョンチェは出ていないことです。両方に出ている作家は、パリ在住の大御所ナム・グァンと、のちの韓国現代美術の国際化に大きな役を果たした「単色絵画」の巨匠であるパク・ソボの二人だけというのも、当時の韓国美術の力関係や国際戦略を感じさせて興味深いです。

  

最後に、リュ・キョンチェの出品歴にある「第8回日本国際美術展」を紹介します(この展覧会には日本在住のクァク・インシクも出品していました)。毎日新聞社と日本国際美術振興会の主催による同展[6]19655月に東京都美術館で開き、京都市美術館、高松市美術館、愛知県美術館、北九州市立八幡美術館、佐賀県立体育館、佐世保市教育会館ホール(つまり九州だけで3か所!)に巡回しています。

特集展示はピカソの版画とフランス彫刻。韓国からはクォン・ヨンウ(抽象絵画)、パク・ノス(東洋画・具象)、クァク・インシク、チェ・ヨンリム(洋画・具象)、パク・ハンソプ(洋画・具象)、ユ(リュ)・キョンチェ、チェ・キヨン(キウォン? 彫刻・抽象)。図録のリストにはないユン・ヒョンジュン(彫刻・抽象)は図版だけ掲載[7]

日本の出品作家が、洋画・日本画・版画・彫刻から当時の大御所作家と現代美術系作家が混在しているの同様、「現代美術」というジャンルが今ほど限定されていなかったことがわかります[8]

なおこの「日本国際美術展」にはインドが第3回展(1955)から継続出品しており、第5回展(1959)では巨匠M. F. フセインが毎日新聞社賞を、第6回展(1961)ではバル・チャーブタが東京都知事賞を、前述の第8回展(1965)ではシャンティ・ダヴェが毎日新聞社賞受賞というように、日本人評論家の眼を引く作品があったことがわかります。他の出品作家でも、ナンダラル・ボース、ジャミニ・ロイ(アジ美コレクションの子鹿ちゃんの作家)、サティーシュ・グジュラールビレン・デ、クリシェン・カンナら、インド美術の巨匠がぞろぞろ紹介されていました。

なおこの「日本国際美術展」が日本戦後美術史に不滅の名を残したのは、前述の、1970年の第10回展、「人間と物質」展です。中原佑介企画による、欧米各地と日本からコンセプチュアル・アート、「もの派」傾向、インスタレーション、パフォーマンスだけで構成した、当時としても世界最高水準と思われ、かつのちの日本における無数の国際展でもありえない、まさに空前絶後の驚異的な展覧会でしたが、これ以後の「日本国際美術展」には国別出品がなくなり、アジア作家は第15回(1984年)のインド美術の特集展示だけになります[9]

この間の1979年から福岡市美術館でインド、80年から韓国を含むアジア美術の紹介が始まるわけですが、「現代美術」というジャンルが未分化な1960年代だからこそインドや韓国の作家にも日本で展示する機会があったというのは皮肉なことかもしれません。そしてもうひとつの皮肉は、韓国が初参加だった上述の第8回展が京都市美術館で開催中の622日に日韓基本条約が締結され、その協議の過程で、前述のような韓国での日本と韓国政府両方への激烈な反対運動が起こっていたことです。

 

ここで紹介したユ・キョンチェが展示した日本での三つの展覧会には、東京オリンピック、日韓基本条約、そして大阪万博という、それぞれの経済成長と国際化へと強引につきすすんでいった時代が、そして自国の美術を世界にうちだす野心と戦略が見えてきます。そのなかで韓国美術界の頂点をきわめていたリュ・キョンチェ[10]と、東京で内省的な作品の実験を続けていたクァク・インシクがそれぞれどのような思いを日韓関係に抱いていたか、また当時の日本の観衆・メディア・評論家が韓国作家の作品をどのように見たかは今後の宿題としておきます(誰の?)。


(学術交流研究員 黒田雷児)

2022.1.15写真追加



[1] パク・ソボといえばアジ美でも所蔵する「単色絵画」の代表作家ですが、1960年代後半のアンフォルメルと単色絵画の間の時代にはややポップな作品や幾何学的抽象の時代があったのです。

[2] 1965年に香港のキャセイ航空主催による史上初?のアジア現代美術展がありましたが(東京、大阪ほか福岡にも巡回)、当時の美術界では注目されなかったようです。同展については2016年にアジ美レジデンス研究者だったパン・ルーの論文 Imagining Asia through “Tour of the Orient”: Cathay Pacific’s “Contemporary Art in Asia” Exhibition in 1965を参照。

[3] ディクディク・サヤディクムラッ(孔井美幸訳)「大阪万博 インドネシア館の記録」、『EXPO'70 大阪万博の記憶とアート』(大阪大学総合博物館叢書18)、大阪大学出版会、2021年、p. 36

[4]
 Dr. Dikdik Sayahdilkumulla, M. Sn. The "Modern Art" Exhibition Indonesian Pavilion at Osaka Expo 大阪万博インドネシア館における「美術」展示 The Japan Foundation Asia Center Asia Fellowship Report, 2016. 

[5] 「韓国における日韓会談反対運動は、日韓両政権が、国民の意思に基づいた植民地過去清算を行わず、『経済協力』や『援助』という美名のもとで日韓関係を早急に正常化しようとすることに対する異議申し立ての行動であった。特に、韓国での日韓会談反対運動は、韓国政権が植民地支配に対する謝罪や責任を追及できていないことに憤慨し、反政府運動の様相を見せながら高まっていった。」李美淑(イ・ミスク)『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』(東京大学出版会、2018年)、p.88

[6] この展覧会についての書籍『日本国際美術展と戦後美術史 その変遷と「美術」制度を読み解く』(創元社、2017)の著者、山下晃平さんに資料を送っていただきました。またクァク・インシクの研究者である東京藝術大学大学院美術研究科のパク・スンホンさん提供の資料も参照させていただきました。山下さん、パクさん、およびリュ・キョンチェ資料をご提供いただいたアン・テヨンさんに御礼申し上げます。

[7] 出品作家数・点数は資料によって食い違いがあります。平野重臣による後年の略年譜では8作家13点ですが、開催当時の小冊子によれば7作家9点。

[8] 日本美術界でも、1960年代後半から、洋画・日本画の大御所ではなく現代美術のトップランナーをヴェネチア・ビエンナーレなど国際展に紹介していくように方向転換をしています。

[9] 「アジア絵画との出会い 伝統と現代を考える」展の一環の「インド現代美術展」として福岡市美術館に巡回(198410-11月)。

[10] 大韓民国芸術院会長、大韓民国美術展覧会運営委員長・審査委員、韓国美術協会顧問などを歴任。