2022年1月31日月曜日

「ヒンドゥーの神々の物語」展によせて  忘却のレッスン~『マハーバーラタ』の深みにハマる(下)

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 3 『シャクンタラー姫』の「忘れたふり」?

『マハーバーラタ』の本筋の主人公たちの祖先にあたるクル家の王の物語として名高いのがカーリダーサ作『シャクンタラー姫』です。私が読んだのは岩波文庫の辻直四郎による擬古文を多用した訳なので読みづらく、解説書や別バージョンから下記のストーリーを再構成しています。

「ヒンドゥーの神々の物語」展には、シャクンタラーの物語を描いたラージャー・ラヴィ・ヴァルマー作品2点が出品されています。《シャクンタラーの誕生》は、インドラ神の策略でアプサラス(天界の踊り子)メネカーがわざとらしく裸を見せて聖仙(苦行者)ビシュバミトラを誘惑し女子を生みます。その赤ん坊(シャクンタラー)をビシュバミトラに見せようとしますが、彼が自分の子と認知しないで見ようともしない場面。ヴァルマー・プリントのなかでもよく知られたもので[1]、展示中のマッチラベルにもなってます。

ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《シャクンタラーの誕生》 

20世紀前半 福岡アジア美術館蔵

ヴァルマーはインドで初めてヨーロッパ様式の油彩画を本格的に制作した巨匠とされていますが、複数の職人が製版・印刷するプリントはもちろん、油彩画を見てもヨーロッパのアカデミズム絵画の基準からしたら下手くそです。この作品でも、遠近感や人体が不自然。でもそれよりさらに不自然なのがビシュバミトラの左手を高く上げて顔を覆うポーズで、当時の演劇でのジェスチャーからきているとか。なお男性が自分の子供を認知しない場面は、以下に述べるように、成長したシャクンタラー自身が経験することになるので、よほどインドではこういう話が多かったのでは……。

もう一点は《恋文をしたためるシャクンタラー》で、後世の『マハーバーラタ』一族の祖先であるドフシャンタ王にひとめぼれしたシャクンタラーが、二人の友人のすすめで蓮の葉にラブレターを書いているところ。中央上部の鹿も物語に出てきますが、森のなかに横たわる人物、全体の三角形構図とその頂点が奥まっているのに手前に見えるところから、エドゥアール・マネの《草上の昼食》を思い出すのは私だけでしょうか……

ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《恋文をしたためるシャクンタラー》

1930年代 福岡アジア美術館蔵(黒田豊コレクション)

ではこのシャクンタラーの恋がどうなったかというと、すっとばしていえば、彼女とドフシャンタ王は結ばれ男児が生まれますが、シャクンタラーが6歳になった息子を王に見せに行くと、「こんな女知らん!」「6歳でこんなにでかいガキはおかしい!」(笑)と激しく拒絶するのです! ただこれは王様の健忘症とか、美人ぞろいの妃が何人もいるせいではあまりにあんまりな(凡庸な)話になってしまいます。そこでまたも「呪い」が物語を動かします。ドフシャンタ王と結ばれてボ~ッとしていたシャクンタラーは、訪ねてきたドゥルヴァーサス仙人にちゃんと応対しなかったので、怒りっぽすぎる仙人がボ~ッと生きてるんじゃねえよ!」と言って(うそ)呪いをかけて、王様が二人の出会いの証拠である指輪を見るまでシャクンタラーのことを忘れさせてしまうのです。しかもさらに間抜けなことに、シャクンタラーはうっかり指輪をなくしてしまったので(これは呪いのせいではなさそう…)、王様の記憶をとりもどせなかったのです。

これが王様の不自然な拒絶を説明するカーリダーサ作品の設定ですが、元の『マハーバーラタ』ではそんな凝った(とってつけたような)設定はありません。実は王様はシャクンタラーを忘れていなかったのに、年長者の承認も儀式もない「ガンダルヴァ方式」で結婚したことを恥じて知らんぷりをして、天の声から結婚を証明されて初めてシャクンタラーと認めたとか……ギリシャ古代劇でもおなじみの「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」による安易な決着を避けるためにカーリダーサ版には指輪+仙人の呪いという仕掛けが加わったわけです。それでももともとの無理な設定が残っているようで、カーリダーサ作品でも、シャクンタラーを拒絶したのが呪いのせいだと周囲の人も納得したときに、ドフシャンタ王は「(安堵して、独語)余は非難からまぬかれた。」(辻直四郎訳)とありますから、「やっぱり、本当に忘れてただけじゃないと~?」(なぜか博多弁で)ツッこんでしまいますよね。理由はどうであれ、シャクンタラーにとってはひどい話です。まあ結果的にはめでたしめでたしなんだけど……だけどそれいいのか?と思うのは、次のような話が『マハーバーラタ』にあるからです。


4 行為の結果を考えない……でいいの?

 『マハーバーラタ』に含まれる「バガヴァッド・ギータ―」はヒンドゥー教の最高の聖典とされ、世界中で読まれています。

作者不詳《バガヴァッド・ギーターの教え》 
20世紀前半 福岡アジア美術館蔵

これは親族や師匠を相手に戦うことをためらうアルジュナに、戦いへの決意を与えるために、アルジュナの御者を務めるクリシュナが諭したもので、そこで最も有名なのは下記の部分です。 

あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(上村勝彦訳)

 私も最初これを読んだときに衝撃を受けました。苦しい状況で自分の仕事の意義や成果に疑問があっても、その時点で自分ができることをしっかり遂行せよという教えはカッコよすぎます(いまどきの「成果主義」とかには真っ向から対立しますよね)。しかしよく考えれば……これは「つべこべ考えずに戦え、敵を殺せ!」と言ってるのと同じことでは? 強制や洗脳による「お国のため」の戦争を肯定しているのでは? さらに、前述の「もの忘れ」キャラにあてはめると、「欲望にかられた『行為』で女性を妊娠させておきながら『結果』に責任をとらないとはなんと非道な!」と思いませんか?

現代人が「バガヴァッド・ギータ―」を読んで抵抗があるのは、くどいほど繰り返されるブラフマー神への祭祀の義務なぞ現代の日本人には無縁なことだからですし、四姓制度(いわゆるカースト制)の絶対視は人権の観点から許容できないからです。そもそもアルジュナが戦いの義務を課せられるのは、彼がクシャトリヤ(武人)階級に属しているからともいえます[2]。しかし世界の「古典」とされる文献にはそのような歴史的制約は避けられないでしょうし、なぜ「古典」が現代にも異文化にも継承されてきたか、なぜ「バガヴァッド・ギータ―」が世界中で翻訳され読まれ研究され、知識人にも政治家にも影響を与えてきたのか考える必要があります。何しろ哲学者シモーヌ・ヴェイユやガンディーにも感銘を与え、ガンディーの非暴力による反英独立運動(サッティヤーグラハ)にも影響したのですから[3]。次のヴェイユの言葉は、上に引用したクリシュナの言葉を現代人に通じるように言い換えたものかもしれません。「自分がかかわっている社会的な諸関係の枠組内において、もろもろの人間的な義務を実践しなければならない。それから離れているようにという神の特別な命令がないかぎりのことであるが。」(冨原眞弓訳『カイエ』4、赤松明彦からの孫引き、p.190[4]

 ちょっと(私自身にも)ハードな話になりすぎましたので、本エッセイの趣旨にもどります――短縮版でも部分訳でも映像でもいいので、『マハーバーラタ』にふれてみましょう! 凄絶な誓いを実行する人間の意志の偉大さに感嘆するもよし、戦いの駆け引きに手に汗をにぎるもよし、ささやかな失敗がとんでもない結果を生むことを反省するもよし、運命の過酷さに戦慄するもよし、魅力的すぎる女性の姿を想像してドキドキするもよし、絶対に実行できそうもない神々の教えに平伏するもよし――広大無辺な歴史と精神が繰り広げるインド世界に潜入せよ!!

 黒田雷児(学術交流専門員)


参考文献*以外はアジ美所蔵)

カーリダーサ「シャクンタラー」(田中於菟弥訳)、『筑摩世界文学大系9 インド・アラビア・ペルシア集』(筑摩書房、1974年)

*カーリダーサ(辻直四郎訳)『シャクンタラー姫』[岩波文庫](岩波書店、1977年)

.ラージャーゴーパーラーチャリ(奈良毅、田中嫺玉訳)『インド古典物語 マハーバーラタ 上・中・下』[レグルス文庫](第三文明社、1983年) のち第三文明選書として新装版で復刊(2017)*

『マハバーラト 第1~4巻』(池田運訳)(講談社出版サービスセンター、20072009年)

マーガレット・シンプソン(菜畑めぶき訳)『マハーバーラタ戦記 賢者は呪い、神の子は戦う』(PHP研究所、2002年)

*デーヴァダッタ・パトナーヤク(沖田瑞穂訳)『インド神話物語 マハーバーラタ 上・下』(原書房、2019)

前川輝光『マハーバーラタの世界』(めこん、2006年)

山際素男『踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語』[光文社新書](光文社、2006年)

上村勝彦『バガヴァッド・ギータ―の世界 ヒンドゥー教の救済』[NHKライブラリー](日本放送出版協会、1998年)

*赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか? 』[書物誕生あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)

Garry O’Connor, The Mahabharata: Peter Brook’s Epic in the Making, photography by Gilles Abegg, Channel Four Book (London: Hodder & Stoughton, 1989).

*赤瀬川原平『老人力』(筑摩書房、1998年)

 


[1] 謹厳な修行者が美女に誘惑される話はエロを倫理で包装できるから世界中にあるのかも……日本では歌舞伎十八番の『鳴神(なるかみ)』とか。

[2] 赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか』[書物誕生あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)、p. 7

[3] 同上 p.153-190に詳しい。

[4] いったん書き終わったあとに見つけたヴェイユのことば。「はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生じるとき、その行為者は完全に自由だろう。行為じたいの難易のほどは重要ではない。成功で飾られるか否かさえ重要ではない。苦痛と失敗は行為者を不幸にすることはできても、行為の機能をみずから掌握している行為者をはずかしめることはできない。」(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、冨原眞弓訳、岩波文庫、2005年、p.84) クリシュナがこのように合理的に説明してくれれば、アルジュナも納得してさっさと戦闘に参加したのでは……)。

2022年1月26日水曜日

「ヒンドゥーの神々の物語」展によせて  忘却のレッスン~『マハーバーラタ』の深みにハマる(上)

 

1 『マハーバーラタ』への道

329日まで開催中の「ヒンドゥーの神々の物語」を見て、『ラーマーヤナ』と並ぶインドの大叙事詩『マハーバーラタ』にだいぶ昔(1989年頃?)に出会ったことを思い出しました。『マハーバーラタ』はとんでもなく長大な物語で、「サンスクリット原典で全18巻、10万詩節、1200章、20万行を超える世界最大の叙事詩」(山際素男による)。聖書の約3倍半と言われてもピンときませんが、山際編訳の9巻本[1]は計3119ページ。池田運の全訳[2]4巻で4126ページにもなります。武人たちを中心として神々や聖者や美女など多数の人物が登場する物語ですが、中心となるのは、パーンダヴァ家5兄弟(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)と、カウラヴァ家100人兄弟の、親族どうしの凄絶な戦争(クルクシェートラの戦い)でクライマックスを迎える壮大きわまりないお話です。

作者不詳《カウラヴァ族とパーンダヴァ族の戦争》20世紀前半 福岡アジア美術館蔵

本筋以外にこの一族の長い歴史も、ナラ王とダマヤンティ、シャクンタラー姫(このふたつは岩波文庫で独立した本になってます)を含む無数の物語も、戦争の後日譚も、後述の高名な「バガヴァット・ギーター」のようなヒンドゥー教の聖典も含まれます。現代人は多忙なうえに娯楽がいくらでもあり、わずかな空き時間もスマホに奪われていますから、全部を通読する余裕(忍耐力?)のある人はほとんどいないでしょう。インド国営テレビ・ドゥールダルシャンで198810月から19906月まで放映され最高視聴率が92%という驚異的な人気を集めたテレビシリーズのDVDも、だいぶ後になってインドの書店で入手しましたが[3]45分の94回分!DVD19枚!なんて見る時間はとれそうもなく、第1回だけしか見てません……。

ドゥールダルシャン放映(B.R.チョプラ製作、ラヴィ・チョプラ監督)
『マハーバーラタ』DVDボックス(2008年) 筆者蔵

横山光輝の『三国志』みたいにマンガで気楽に読めるといいんだけど……そんなの日本では出ていませんから、私が『マハーバーラタ』の全体像を把握できたのは、レグルス文庫の3冊本(下記参考文献参照)からです。新書版で全816ページと短かく、主となるストーリーがコンパクトにまとめられています。もうひとつは、日本のテレビで録画した、ピーター・ブルック演出の演劇(1985年)に基づく、1989年の映画[4]。元は舞台劇ですから、インドのテレビ番組のような(今の眼ではかなりローテクな)特撮映像はほとんどなかったと思いますが、世界各地から集めた、様々な人種・文化の俳優たちによる演技、全体の荘重で厳粛で超俗的な雰囲気は十分に吸引力をもっていて、レグルス文庫版よりもはるかに『マハーバーラタ』の精神性にふれることができました。あまりに感動したので、6時間近いのに2回も見た覚えがあります[5]

 

2 「もの忘れ」の呪い

このような手軽(安易?)な接しかたの範囲ですが、ではなぜ『マハーバーラタ』が(インドについて特に深い知識もない)私にも鮮烈な印象を与えたのでしょうか。まずは(特にブルック版で強調された)多様なキャラクターの魅力です。人間離れした人徳や知力や意志や戦闘力の持ち主だけでなく、いやむしろそういう人こそ、生身の人間には逃れられない失敗、愚行、卑劣さを経験し、避けられない過酷な運命に襲われるのです。典型的なのは、人徳で知られるユディシュティラの失策です。彼はカウラヴァ家の長兄ドゥルヨーダナに博打にさそわれてイカサマとも知らず負け続け、領土、財産、兄弟と妻(5人兄弟共通のドラウパディー)まで失ってしまうのです[6]。(なお前述のインドのテレビで最高視聴率を記録したのが、博打のカタにとられたドラウパディーが服を脱がされる回[7]。実際はクリシュナの加護で裸にはならないことをインド人ならたいてい知っているだろうに[笑])またこのユディシュティラは、猛烈な戦闘力を示す敵将ドローナの戦意を失わせるために、嘘をつきます。(ドローナの息子と同じアシュヴァッターマンと名付けた象を弟のビーマが殺し、真相を問い詰めるドローナに対し、ユディラシュテラが、「象の…」のところだけ小声で言って「…アシュヴァッターマン」が殺されたと告げたため、それを信じたドローナが戦意を喪失する。)勝つために手段を選ばない戦争の非情さ、卑劣さを示すエピソードです。しかしこれにとどまらず、以下に述べるカルナとの闘いのように、パーンダヴァ側を勝たせるために、アルジュナの御者であり精神的な指導者でもあるクリシュナは、しばしば倫理に反するような策を使うのです。その冷徹な指揮の恐ろしさは、核兵器をも思わせる殺戮兵器や、全人類が滅亡へとすすんでいくような戦慄にもつながっていきます(最終的に勝利をおさめるパーンダヴァ軍も、父をだまし討ちされて怒りくるったアシュヴァッターマンによってほとんど殺されてしまう)。このような人間観の深さと運命の恐ろしさにおいて、『マハーバーラタ』は、(私の知る限り)『ラーマーヤナ』をはるかにしのいでいます。

しかし私が個人的に『マハーバーラタ』からショックを受けたのは、もっとささやかな……いや、ささやかだからこそ現代人にも日常的に起こりそうなエピソードです。御者の身分(実はそうでないことが明らかになる前)のカルナは、ビーシュマ、ドローナの後を継いで、3人目のカウラヴァ軍の総司令官になりますが、ふたつの呪いによってアルジュナに討たれます。ひとつは闘いの最中に自分の戦車の車輪が地中にはまって動けなくなってしまう呪い。さらにもうひとつの呪いにより、必殺の兵器ブラフマスートラを呼び起こすための文句(マントラ)がどうしても思い出せなくなること[8]。これが私には個人的に衝撃だったのは、加齢による記憶力の低下を自覚する(「老いるショック」?)以前に、若いころから記憶力がとても悪く、仕事でも生活でもさんざん恥ずかしい思いをしてきたからです……。赤瀬川原平が「老人力」と名付けたように「忘却力」のメリットもあると自分を慰めてきましたが、大戦争の危機的な状況のなかでフレーズを思い出せないという致命的な物忘れがあるとは……それが私にも(あなたにも!)起こらない保証はありません!  ([下]つづく)

黒田雷児(学術交流専門員) 




[1] (下)の参考文献参照。インドに足しげく通い多数のインド題材の作品を制作した日本画家・秋野不矩(ふく)の挿絵と、多数のブックデザインをおこなった渡辺千尋のデザインなので魅力的な本になってますのでおすすめ。

[2] 文末の参考文献参照。題名を「マハバーラト」としているように、人名など固有名詞の読みが他と異なっています。なお上村勝彦による原典訳(ちくま学芸文庫)は訳者の死去により未完。

[3] 今はインターネット上で見れます(字幕ありませんが)。

[4]ピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』は東京の銀座セゾン劇場で1988529日から722日に上演されました。1回の上演に9時間を要します。英語の参考文献参照。

[5] あいにくそのVHSテープを紛失してしまいましたが、今ではテープやDVDは市販されています。

[6] 立派な人が博打ですべてを失うというのは『マハーバーラタ』の別の有名なエピソード、ダマヤンティーの夫ナラ王の話にも出てきます。よほどインドでは上流階級でも博打で破滅する人が多かったということでしょうか……

[7] 『生活とアート I インドのカレンダーアート 女神からピンナップへ』(福岡アジア美術館、2000年)、9-1の作品解説(p.72) 

[8] なおこのような窮地に陥ったカルナを、戦闘態勢をとれない相手とは戦わないという掟を破ってアルジュナに討ち取らせるのは、またしてもクリシュナなのです。