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3 『シャクンタラー姫』の「忘れたふり」?
『マハーバーラタ』の本筋の主人公たちの祖先にあたるクル家の王の物語として名高いのがカーリダーサ作『シャクンタラー姫』です。私が読んだのは岩波文庫の辻直四郎による擬古文を多用した訳なので読みづらく、解説書や別バージョンから下記のストーリーを再構成しています。
「ヒンドゥーの神々の物語」展には、シャクンタラーの物語を描いたラージャー・ラヴィ・ヴァルマー作品2点が出品されています。《シャクンタラーの誕生》は、インドラ神の策略でアプサラス(天界の踊り子)メネカーがわざとらしく裸を見せて聖仙(苦行者)ビシュバミトラを誘惑し女子を生みます。その赤ん坊(シャクンタラー)をビシュバミトラに見せようとしますが、彼が自分の子と認知しないで見ようともしない場面。ヴァルマー・プリントのなかでもよく知られたもので[1]、展示中のマッチラベルにもなってます。
ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《シャクンタラーの誕生》
20世紀前半 福岡アジア美術館蔵
ヴァルマーはインドで初めてヨーロッパ様式の油彩画を本格的に制作した巨匠とされていますが、複数の職人が製版・印刷するプリントはもちろん、油彩画を見てもヨーロッパのアカデミズム絵画の基準からしたら下手くそです。この作品でも、遠近感や人体が不自然。でもそれよりさらに不自然なのがビシュバミトラの左手を高く上げて顔を覆うポーズで、当時の演劇でのジェスチャーからきているとか。なお男性が自分の子供を認知しない場面は、以下に述べるように、成長したシャクンタラー自身が経験することになるので、よほどインドではこういう話が多かったのでは……。
もう一点は《恋文をしたためるシャクンタラー》で、後世の『マハーバーラタ』一族の祖先であるドフシャンタ王にひとめぼれしたシャクンタラーが、二人の友人のすすめで蓮の葉にラブレターを書いているところ。中央上部の鹿も物語に出てきますが、森のなかに横たわる人物、全体の三角形構図とその頂点が奥まっているのに手前に見えるところから、エドゥアール・マネの《草上の昼食》を思い出すのは私だけでしょうか……
ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー《恋文をしたためるシャクンタラー》
1930年代 福岡アジア美術館蔵(黒田豊コレクション)
ではこのシャクンタラーの恋がどうなったかというと、すっとばしていえば、彼女とドフシャンタ王は結ばれ男児が生まれますが、シャクンタラーが6歳になった息子を王に見せに行くと、「こんな女知らん!」「6歳でこんなにでかいガキはおかしい!」(笑)と激しく拒絶するのです! ただこれは王様の健忘症とか、美人ぞろいの妃が何人もいるせいではあまりにあんまりな(凡庸な)話になってしまいます。そこでまたも「呪い」が物語を動かします。ドフシャンタ王と結ばれてボ~ッとしていたシャクンタラーは、訪ねてきたドゥルヴァーサス仙人にちゃんと応対しなかったので、怒りっぽすぎる仙人が「ボ~ッと生きてるんじゃねえよ!」と言って(うそ)呪いをかけて、王様が二人の出会いの証拠である指輪を見るまでシャクンタラーのことを忘れさせてしまうのです。しかもさらに間抜けなことに、シャクンタラーはうっかり指輪をなくしてしまったので(これは呪いのせいではなさそう…)、王様の記憶をとりもどせなかったのです。
これが王様の不自然な拒絶を説明するカーリダーサ作品の設定ですが、元の『マハーバーラタ』ではそんな凝った(とってつけたような)設定はありません。実は王様はシャクンタラーを忘れていなかったのに、年長者の承認も儀式もない「ガンダルヴァ方式」で結婚したことを恥じて知らんぷりをして、天の声から結婚を証明されて初めてシャクンタラーと認めたとか……ギリシャ古代劇でもおなじみの「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」による安易な決着を避けるためにカーリダーサ版には指輪+仙人の呪いという仕掛けが加わったわけです。それでももともとの無理な設定が残っているようで、カーリダーサ作品でも、シャクンタラーを拒絶したのが呪いのせいだと周囲の人も納得したときに、ドフシャンタ王は「(安堵して、独語)余は非難からまぬかれた。」(辻直四郎訳)とありますから、「やっぱり、本当に忘れてただけじゃないと~?」と(なぜか博多弁で)ツッこんでしまいますよね。理由はどうであれ、シャクンタラーにとってはひどい話です。まあ結果的にはめでたしめでたしなんだけど……だけどそれいいのか?と思うのは、次のような話が『マハーバーラタ』にあるからです。
4 行為の結果を考えない……でいいの?
『マハーバーラタ』に含まれる「バガヴァッド・ギータ―」はヒンドゥー教の最高の聖典とされ、世界中で読まれています。
これは親族や師匠を相手に戦うことをためらうアルジュナに、戦いへの決意を与えるために、アルジュナの御者を務めるクリシュナが諭したもので、そこで最も有名なのは下記の部分です。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(上村勝彦訳)
私も最初これを読んだときに衝撃を受けました。苦しい状況で自分の仕事の意義や成果に疑問があっても、その時点で自分ができることをしっかり遂行せよという教えはカッコよすぎます(いまどきの「成果主義」とかには真っ向から対立しますよね)。しかしよく考えれば……これは「つべこべ考えずに戦え、敵を殺せ!」と言ってるのと同じことでは? 強制や洗脳による「お国のため」の戦争を肯定しているのでは? さらに、前述の「もの忘れ」キャラにあてはめると、「欲望にかられた『行為』で女性を妊娠させておきながら『結果』に責任をとらないとはなんと非道な!」と思いませんか?
現代人が「バガヴァッド・ギータ―」を読んで抵抗があるのは、くどいほど繰り返されるブラフマー神への祭祀の義務なぞ現代の日本人には無縁なことだからですし、四姓制度(いわゆるカースト制)の絶対視は人権の観点から許容できないからです。そもそもアルジュナが戦いの義務を課せられるのは、彼がクシャトリヤ(武人)階級に属しているからともいえます[2]。しかし世界の「古典」とされる文献にはそのような歴史的制約は避けられないでしょうし、なぜ「古典」が現代にも異文化にも継承されてきたか、なぜ「バガヴァッド・ギータ―」が世界中で翻訳され読まれ研究され、知識人にも政治家にも影響を与えてきたのか考える必要があります。何しろ哲学者シモーヌ・ヴェイユやガンディーにも感銘を与え、ガンディーの非暴力による反英独立運動(サッティヤーグラハ)にも影響したのですから[3]。次のヴェイユの言葉は、上に引用したクリシュナの言葉を現代人に通じるように言い換えたものかもしれません。「自分がかかわっている社会的な諸関係の枠組内において、もろもろの人間的な義務を実践しなければならない。それから離れているようにという神の特別な命令がないかぎりのことであるが。」(冨原眞弓訳『カイエ』4、赤松明彦からの孫引き、p.190)[4]
参考文献(*以外はアジ美所蔵)
カーリダーサ「シャクンタラー」(田中於菟弥訳)、『筑摩世界文学大系9 インド・アラビア・ペルシア集』(筑摩書房、1974年)
*カーリダーサ(辻直四郎訳)『シャクンタラー姫』[岩波文庫](岩波書店、1977年)
C.ラージャーゴーパーラーチャリ(奈良毅、田中嫺玉訳)『インド古典物語 マハーバーラタ 上・中・下』[レグルス文庫](第三文明社、1983年) のち第三文明選書として新装版で復刊(2017年)*
『マハバーラト 第1~4巻』(池田運訳)(講談社出版サービスセンター、2007~2009年)
マーガレット・シンプソン(菜畑めぶき訳)『マハーバーラタ戦記 賢者は呪い、神の子は戦う』(PHP研究所、2002年)
*デーヴァダッタ・パトナーヤク(沖田瑞穂訳)『インド神話物語 マハーバーラタ 上・下』(原書房、2019年)
前川輝光『マハーバーラタの世界』(めこん、2006年)
山際素男『踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語』[光文社新書](光文社、2006年)
上村勝彦『バガヴァッド・ギータ―の世界 ヒンドゥー教の救済』[NHKライブラリー](日本放送出版協会、1998年)
*赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか? 』[書物誕生―あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)
Garry O’Connor, The Mahabharata: Peter Brook’s Epic in the Making, photography by Gilles Abegg, Channel Four Book (London: Hodder & Stoughton, 1989).
*赤瀬川原平『老人力』(筑摩書房、1998年)
[1] 謹厳な修行者が美女に誘惑される話はエロを倫理で包装できるから世界中にあるのかも……日本では歌舞伎十八番の『鳴神(なるかみ)』とか。
[2] 赤松明彦『「バガヴァッド・ギーター」 神に人の苦悩は理解できるのか? 』[書物誕生―あたらしい古典入門](岩波書店、2008年)、p. 7
[3] 同上 p.153-190に詳しい。
[4] いったん書き終わったあとに見つけたヴェイユのことば。「はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生じるとき、その行為者は完全に自由だろう。行為じたいの難易のほどは重要ではない。成功で飾られるか否かさえ重要ではない。苦痛と失敗は行為者を不幸にすることはできても、行為の機能をみずから掌握している行為者をはずかしめることはできない。」(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、冨原眞弓訳、岩波文庫、2005年、p.84) クリシュナがこのように合理的に説明してくれれば、アルジュナも納得してさっさと戦闘に参加したのでは……)。