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おうちで知りたいアジアのアート Vol. 12 「わが黄金のベンガルよ」展によせて-2 (美術批評篇) モハマド・ユヌス作品に見る文明批評

前回には日本留学のバングラデシュ作家がほとんど「洋画」の領域で発表し、その抽象絵画には特有の傾向があることを指摘しました。しかし個々の作品を子細に見て、作家の意図を追求していけば、抽象的な作品にも奥深いテーマがひそんでいることもあります。
 現在アジアギャラリーの「アジアのモダニズム」コーナーで展示しているモハマッド・ユヌスの絵画は、1989年に行動美術展で最高賞を受賞するという評価を受けた作品として福岡市美術館に収蔵されています(のちアジ美に移管)。この当館所蔵のバングラデシュ作家による絵画としては最大の作品について作家からメールで制作意図をうかがうことができたので、以下に紹介します。

モハマッド・ユヌス《Step by Step》 1989 油彩・画布
Mohammad Eunus 《Step by Step》 1989 oil on canvas
182.2×275cm

 画面全体を支配するのは、前述のようなバングラデシュ作家が好むオートマティズム的な、形になりそうで形にならない平面の広がりですが、そこには陰影をほどこして立体的に見える不思議な形態が埋め込まれています。ヒントとなるのは「Step by Step」という題名と、中央に書かれた文字で、判読しにくいですが、「From that we had civilized / But now we are going back to that Dark age」すなわち「われわれはあれから文明化した/しかし今われわれは暗黒の時代にもどりつつある」と書いてあります。
 その上には、原始時代の人間の住処だった洞窟を示す三つのアーチ型があり、それぞれに多数の釘のようなものが描かれています。よく見れば左が白く、右のほうが黒くなっています。この釘は機械化した人間を表し、上記の言葉からすれば、文明化に逆行する人間の堕落を示すようです。
 文字の下には、画面全体を横切る赤い紐に吊るされた三つの物体が描かれ、それは「飲み水を容れたり、洞窟に絵を描くための動物の脂肪や血を容れる保存容器であり、楽器にもなる」動物の角(つの)だと作家はいいます。
 そのさらに下には、猿と何かの動物に見える形態があり、石器時代の人間を表します。
 右下の三角形は石のナイフからきており、引っかいたような線描とともに洞窟に住む文明化以前の人間の生活を表しているようです。
 また中央やや左で垂直に延びる線は、自然破壊により葉を失った木を表しています。

 以上のように、全体の暗鬱な色調や、構築しながら崩壊するような形態は、文明の進歩が人間の機械化や自然破壊に至るというパセティック(悲観的)なテーマに合ったものといえます。では「Step by Step」はどのように解釈できるでしょうか。文字通りに訳せば「一歩ずつ」人間は文明化してきたということですが、上記のように作品のメッセージは進歩を信仰する楽観主義とは反対であり、文明化は実は原始時代の野蛮への退行でもあるという警告でもありますから、「文明の段階」というように進歩と退歩の両方の意味をもたせたほうがいいでしょう。

 今の世界は社会的・経済的な統制やワクチン開発・治療という人類の知を総動員して新型コロナウイルスによる破滅を避けようとしています。日本では急激に感染者が減っていますが、世界各地ではいったんおさえこんだ感染がまた急増している地域もあります。またコロナとの闘いのなかで浮かび上がってきたのは、各国の政策(それを支える政治体制や民主主義のあり方)の大きな違いであり、株式市場で大きな利益をあげる者と職を失なった非正規労働者との経済格差、リモートワークができる会社員と、現場仕事が不可欠のエッセンシャル・ワーカーとの差であり、また感染者やアジア系への不当な差別や暴力です。コロナ禍を別にしても、長くきびしい闘いによって勝ちとられてきた民主主義を強権や暴力で押しつぶす動きも目立ってきています。全世界が協力して医学、政治学、経済学等の最先端の知と制度を駆使しながらも避けることのできない原始的野蛮への転落の恐れは、このユヌス作品のメッセージと無縁ではないようです。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノのあまりにも有名な言葉ですが(注1)、アドルノが一貫して警鐘を発してきたのは、人間による自然の支配とともに、文化批判もまた文化から利益を引き出す資本主義のシステムから免れないことでした。日本で学び制作活動をしたユヌスが、《Step by Step》で文明史的な視野から現代社会の野蛮への転落に対して警鐘を発していたのは1989年、まさに日本の「バブル経済」真っ盛り。コロナ禍を経た今の日本では、もはや資本主義原理による「発展」への信仰は失われ、社会の分断がいつまた「野蛮」を噴出させるかわからない時代。そういうときに、日本とは著しく異なる文化圏から来た美術家が32年前に発した警鐘を思い起こしてもいいのではないでしょうか。

 ユヌスはあるインタビューで、透明な絵の具の層を何層にも重ねながら、一番下の層を含めてすべての制作過程が見えることを重視しているといいます(注2)。また同じインタビューではこのように述べています。「壁の絵を描けば、時間のことを考える。その壁は何10年も前からあって、その間に起こったあらゆることの痕跡を残している。だから壁は見た目だけでなく物質的な手触りも歴史を語っている。私の作品はそういう経験からきている。」――この言葉は、《Step by Step》における、水彩画のように溶解して広がる面にただよう不定形と、そこに三次元的に浮かび上がる物体の併存をよく説明しています。そしてまた、ユヌスの作品もまた、何かの歴史を遠く離れた地域と時代の観衆に伝える「壁」であることも。
(学術交流専門員 黒田雷児)


注1
「文化批判と社会」(1949年)、テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメン』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1996年)、p.36

注2
"Mohammad Eunus’s refashioning of abstraction," New Age, April 7, 2021.