他人を笑うな、自分を笑え!
チャーチャーイ・プイピア作品における彼岸からの眼差し
利益になるわけでもなく自明の正しさに同調させるのでもないあらゆるものを冷酷にそぎ落としていく傾向にある世界で、ただ単に美術家「である」だけということは、多くの人に尊重され注目されるべき深遠な抵抗の行為なのだ。
(グレゴリー・ガリガン「チャーチャーイ・プイピア 孤立の場所 静物、自画像、生きているアーカイブ」[1])
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チャーチャーイ・プイピア
花よ、人は死んだらどこへ行くのか
Dok Peep, Where Does One Go after Death?
1997年 油彩・画布 239.2×280.1 cm
福岡アジア美術館所蔵
絵画作品は、スペクタクルやエンターテメントが求められ映像や体験型空間で人を驚かす国際美術展や芸術祭では注目されにくくなってしまいましたが、1990年代以後もアジア各地で強力な画家が輩出し、国内外の美術市場をにぎわせてきました。絵画作品が、図像の凝縮と永遠化によって、時代を超え地域も超えた深い思想を伝えてくれることは今も変わりはなく、インターネットによって即時的に図像が消費されていく時代だからこそ価値があるともいえます。特にこのチャーチャーイ・プイピアは、傑出した画力と強烈なイメージ生成力によって、1990年代にタイのみならずアジア全体のなかでも高い注目を集めました。しかし彼は、その名声にもかかわらずあえて美術界から身を引き、「隠棲」の生活を選んだことからもわかるように、政治状況の変化や、短期的に消費される現代アートの流行や国際化の幻想に惑わされることなく、部外者(アウトサイダー)としての位置を保つことによって、一貫して現代人の生の在り方を問いかけてきた作家です。
チャーチャーイは、バンコクの名門美術大学シラパコーン大学を卒業した1988年頃からすでに異例ともいえる高い評価を得ています。この年にタイ農民銀行主催の現代美術展の最高賞を含む4つの賞を受賞、翌1989年には東芝美術賞一等賞を含む3つの受賞。1992年には、日本におけるアジア現代美術展の転機となった、国際交流基金による重要な展覧会「美術前線北上中 東南アジアのニューアート」展に選ばれ、4点を出品(福岡市美術館には9~10月に巡回)。そのうち《皮膚の下の欲望》を含む3点が福岡市美術館に収蔵されます(今はアジ美に移管)。それに続いて1995年の国際交流基金が清水敏男をキュレーターとして東京で開いた「幸福幻想 アジアの現代作家たち」に出品。そしてチャーチャーイの国際的な評価を決定づけたのは、1996年にアジア協会主催によりタイのアピナン・ポーサヤーナンをキュレーターとして、世界現代美術の中心地・ニューヨークで初めてアジア現代美術を本格的に紹介した歴史的な展覧会「アジアの現代美術 伝統/緊張(Traditions/Tensions:Contemporary Art in Asia)」[3]に出品し、彼の作品《シャムの微笑》が図録の表紙を飾ったことでしょう。同年には第2回アジア太平洋トリエンナーレ(クイーンズランド美術館、ブリスベーン)にも選ばれています。
国際的名声を得たチャーチャーイの作品は次々とコレクターたちの手に渡るようになり、福岡市美術館の後小路雅弘学芸員(のちアジ美学芸課長[4])とラワンチャイクン学芸員(現・アジ美学芸課長)が、作品返却や調査のためのアジア出張の機会にバンコクに立ち寄り、1997年10月30日にバンコク大学で開会前のチャーチャーイの個展[5]を見に行って《花よ》をゲットすることができました。そのときにチャーチャーイは、前述のようにいちはやく作品を買ってくれた福岡市美術館に恩義を感じ、他のコレクターよりも福岡市美を優先して売ってくれたのです。
その《花よ》は、現在(6月26日)のアジアギャラリーで、ソン・ヨンピンによる、病に侵され亡くなっていく両親とのポートレート写真(※)、ミンウェーアウンによる逆光のなかの老夫婦の絵、そしてジャン・シャオガンによる若い日の母親とのノスタルジックな自画像にはさまれた、家族のテーマで老いと死がただよう濃密な空間でも、他作品を圧する強烈な存在感を誇っています。
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チャーチャーイ・プイピア Chatchai Puipia
皮膚の下の欲望 Desire under the Skin
1989
動物の皮、植物繊維、木、竹籠、ファイバーグラス、樹脂、布、装飾品、アクリル・板
199.8×117.7cm
福岡アジア美術館所蔵
《皮膚の下の欲望》には、当時作者が興味をもっていた伝統文化・風習にかかわる様々な日用品が使われています。全体が明るい原色でおおわれているため一見してわかりませんが、よく見れば、竹のザルや藁などの道具、装身具、小さな虫のおもちゃなど雑多なものたちが、堅固な造形力で巧みに統一されています。日用品は元の用途がわからなくなり宗教儀式で使う道具のように神秘的なものに見え、中央の白と黒のネックレスのような物体や革製の物体は、素朴な村落世界というよりは、近代化されるはるか以前
ビーズ玉ネックレス(《皮膚の下の欲望》部分)
題名が示すように[6]、慣習や虚飾などの皮膚の覆いをはぎとったときにまるで内蔵のようにグロテスクなものとして現れる「欲望」がテーマです。裏面のラベルによればこの作品は「人間と信仰Man and Belief」というシリーズのひとつですが、「信仰」といってもタイの主流文化として語られる仏教とは無縁です。チャーチャーイが学んだシラパコーン大学で発展した、パンヤー・ウィチンタナサーンらによる「新伝統派」の装飾的様式や心の静穏さとは対照的に、チャーチャーイの卓越した画力は様式化された信仰の表現よりも生身の人間の苦悩を描き出すことに使われます。ですので、チャーチャーイが「新伝統派」に倣うことなく、仏教壁画に西洋画法を取り入れてリアリズムに接近した19世紀半ばの画家クルア・イン・コン(KhruaIn Khong)の作品を愛し、後年にその影響を示す絵画も発表するのもうなずけます。彼は制作と生活の両面で脱俗ないしは超俗の作家といえますが、その作品は物質的・身体的な現実に根差したものなのです。
ただし《皮膚の下の欲望》では、後年の写実主義とは異なり、既製品の集積と抽象的な構成が主調となっています。ここでは日用品や手の型どりが示すように「現実」は描かれるのでなく直接に提示されており、「信仰」というのも、言語や観念ではなく身の回りの古い器物に精霊が宿るとするアニミズム(日本でいう「付喪神(九十九神、つくもがみ、)」?)のようなものでしょう。《皮膚の下の欲望》というタイトルと、「タイは仏教国だから人は相手を利用したりしないというけど、実際に周りを見れば、どこにも貪欲と消費主義しかないだろう?」[7]という作家の言葉から推測すれば、原始的アニミズムも現代の消費主義と同様に物体への欲望=フェティシズム(物神化)に基づいているという隠しテーマがあるかもしれません。
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父親の頭にふりかかる白い花はタイ語で「ピープ」といい、ミリントニアまたはコルクノウゼンという南アジア・東南アジアに生える木の花で、樹皮はコルクの代用になり花はいい香りがします。チャーチャーイは父の葬儀をすませて家に戻って一服しているとき、暗闇のなかに白い花が木の下にいっぱい散っているのを見て感じるところがあり、父親の死とコルクノウゼンの花を結びつけたのです。《花よ、人は死んだらどこへ行くのか》という詩的な題名は引用ではなく作家自らの言葉ですが、ゴーギャンの有名な作品《我々はどこから来たか? 我々は誰か? 我々はどこに行くのか?(Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?)》(1898年)を参照した作品をチャーチャーイは1999年に制作しており、人間の生のはかなさを問いかける普遍的なテーマが「人は死んだらどこへ行くのか」という題名にも表れているといえます。
この作品は父親の死をテーマとした数点の絵画のひとつではありますが、単に個人的な家族の感傷を扱ったものではありません。これ以前の作品と同じく、作家の思考は常に自分自身へと向かい(つまりこれも自画像のひとつです)、そこからさらに深遠なテーマへと展開します。ひとつは「死と意識の関係」(クリッティヤー・カーウィーウォン)[9]という哲学的なテーマです。日常的な意識が狂気へと移行していくとき、眼差しは外界の現実に向かうのではなく内面に向かいます。興味深いことに、チャーチャーイは死にゆく父親のまなざしについて語ったすぐあとに、自分が若いころに欧米の都市で経験した、西洋人からステレオタイプな外国人(アジア人)として見られた経験を思い出しています[10]。つまり「眼差し」はコミュニケーションよりもコミュニケーションの拒否、他者の拒絶を示すのです。《シャムの微笑》シリーズでも、大きく見開いた眼が私たちにその男の意志や感情を伝えるよりも、無限遠に焦点を合わせるか、あるいは逆に自分の内面に向けられていました。狂気をはらんだ眼であれ、あるいは私たちを笑わせる道化師の眼であれ、その心のなかは死者と同様に私たちが知りえない・理解しえないままです。つまり人間は生きている間でも、意識としてとらえられない存在とされれば一種の死を迎えるのです。
ミリントニアの花はまるで西洋古代の月桂冠のように父親の頭を飾っていますが、男性の顔と花の組み合わせもまた、これ以前の《シャムの微笑 入ってもいい?》(1995年)から、《ジャングルの神話への旅 ルソー讃》(2013年)まで、作家の自画像のシリーズに頻出します。つまり花は、父親の死とも、また死者への献花とも必ずしも関係がないのです。そう考えると、画家に国際的名声をもたらした《シャムの微笑》も、単に消費社会での人間の貪欲さ・狂気を暴いただけの作品ではないように思えます。男性の顔と花の図像をチャーチャーイ作品の系譜のなかで見ていくと、死や狂気というテーマとはまったく異なるテーマが浮かび上がってきます。それは「(男性の)女性化」というテーマです。
「女性化」が直接に現れているのは、いかにも頼りなく内またに手をあてたり(《ここは何かにおうぞ》)、複雑な表情で両手で片方の胸をつきだそうとする半裸の若者を描いた作品(《どうしていつもこういう結果になるのか? 》 2点とも1994年)、また《花よ》と同じ展覧会に出品された女性的ポーズの男性像に見られます。さらにグロテスクな例は、切られた男性器と血まみれの心臓を手に女性器をもつ男性(=作者)という異様なイメージの絵(《心は孤独な画家》、2006年)です。同じシリーズの別作品では、右手がなく左手で絵筆を持っており、画家としての「去勢」を示しています(絵筆が男性の性的能力を暗示するのはピカソの《画家とモデル》シリーズを思わせます)。
男性としての能力・主体性・誇りをすべて奪われた捕虜や囚人のように非常に屈辱的なこのポーズ[11]は、道化師のような男が股の間から顔をのぞかせるポーズの彫刻に展開します。「脚の間からのぞくと、睾丸が邪魔しなければ、新しい見方ができ、新しいものが見え、新しい考えができる」[12]と作家が言うように、日本でも「股のぞき」は風景が通常の視覚と違って見えることは知られています。通常の姿勢からは見ることのできない世界を見るその姿は、死に向かう状態からこの世の現実を振り返ってみる《花よ》の構造に通じるといえます。無防備に尻をさらけだす屈辱的なポーズと、彫刻では男が初期絵画と同じく道化のような表情をしていることから、社会の常識や多数者と異なるものを見ようとする態度が、世間からは異常者とされ嘲笑されたり排除されることを作家は十分意識しています。しかしながら、よく見れば、このポーズが最初に現れる絵画《たぶん天国》では、低く降ろした尻の向こう側は見えません。そもそも、なぜ作者はわざわざ先に引用した言葉で「睾丸が邪魔しなければ」などいわずもがなな(笑)ことを言ったのでしょう? 新しい世界観を得るために「男性性」が邪魔だということでしょうか? これ以上の深読みは困難ですが、これが自画像の背面であると考えれば、他者を嘲笑する(社会批判?)であるとともに道化として(あるいは外国人として)他者から嘲笑されるという自己の両義性の表現とも考えられます。
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以上みてきたように、チャーチャーイ作品は決して容易に解読できるものではありませんが、現代世界の近代化や経済発展、グローバル化などを受け入れる世界(あるいは国際美術市場への参入で浮かれるタイ美術界?)を、死、狂気、無力化を経由することで見つめ直そうとしていることはまちがいありません。そのような姿勢を実生活においても実践するために、チャーチャーイは2005年にいったん美術界から縁を切って6年間の引きこもり生活に入ります。ここで述べたような、初期から一貫した「死」への執着は、2010年に作品集『チャーチャーイは死んだ、でなければ死ぬべきだ(Chatchai Is Dead. If Not, He Should Be) 』(Bangkok: A Leg Up Society, 2010)を発行したことでひとつの決着となります。
箱サイズ30.6x26.3x5.4cm、重さ3.12kgもあるこの大型本は、友人や家族からの弔いの言葉を集めたタイの葬儀のときに発行される本のスタイルで作られました。この本の発行を告知するために、チャーチャーイは、2011年1月、バンコクのセントラル・チドロム・イベントホールで盛大に自分の「葬式」を挙行しました。そこでは作家のお気に入りの、ルークトゥン(Luk
Thung、タイ独特の歌謡曲)の人気歌手チャーイ・ムアンシン(Chai Muangsingh)と踊り子が登場する華やかなショーが行われました。ここで述べてきたような、社会常識に唾を吐くような批評精神、また自分の死を告知するというペシミズムからは、この葬式イベントの華やかさと多くのゲストをもてなす社交的な作家の姿は意外なものですが、大部の作品集を出すという通常は社会的(経済的)成功と権威化を示す習慣を茶化そうとしたのでしょうか。ここにもこの作家の自己肯定と自己否定の重なりあいを見ることもできます。
この「葬式」の後は、2015年にバンコクの100トンソン・ギャラリー(現・100トンソン財団)で回顧的な展覧会があり、2018年にはバンコクのノヴァ・コンテンポラリーで大掛かりなインスタレーションとして新作絵画も発表しますが、1990年代末の国内外の驚くべき活躍と比べればほとんど美術家としては「隠棲」ともいえる活動停止状態になります。冒頭に引用したガリガンによるチャーチャーイの位置づけは、いわゆる「社会参加social engagement」が求められる現代アートの流行からは「時代遅れretro」とされる彼の絵画をあえて再評価しようとするものでした。その作品の視覚的インパクトはすさまじくとも、冒頭に引用したガリガンの言葉にもあるように、またここで述べてきたように、わかりやすい社会批評として解釈できるものでも[13]、「役に立つ」美術として簡単に説明できるものではありません。(観光産業にもなる)タイの主流である仏教文化からも、(欧米での評価に必須の)欧米のコンセプチュアル・アート以後の潮流からも、日本中の芸術祭でもてはやされる一時的なお祭りでしかない「社会参加」からも距離をとる、意図的な「孤立」「隠棲」。そのような「ひきこもり」(ステイ・ホーム? 社会的距離?)がもたらす自由な想像力によって徹底して自分のみを見つめ世界を見返すという非常に「芸術的」な戦略をチャーチャーイは選んだともいえます。「自分の作品を他人にわかってもらおうと思わない」「自分の絵は他人の反応を誘発することもない」[14]と言い切るいっぽうで、チャーチャーイは社会のなかでの芸術家の責任について自覚しているのです。
「社会を刺激して想像力で別の可能性を切り開かないといけない。社会が危機にあるときはいつでも美術家や物を書く作家は重要な役割があり、常に最前線にいる。反抗する魂以外に、私たちは何を提案できるんだ? 美術家が主導して人々の魂を擁護するべきなんだ。」(チャーチャーイ・プイピア[15])
黒田雷児(学術交流専門員)
2021.6.30/7.3/7.8修正
[1] Gregory Galligan, Chatchai Puipia; Sites of Solitude—Still Life, Self-Portrait, and the
Living Archive (Bangkok: 100 Tonson Gallery, 2015), n.p.
[2] 展覧会紹介の動画も参照。11分40秒~12分25秒に《皮膚の下の欲望》の解説あり。
[3] 1996年10 月3日~12月23日、ニューヨークの3会場(グレイ・アート・ギャラリー, クイーンズ美術館, アジア協会ギャラリー)で開催、のちヴァンクーヴァー・アート・ギャラリー(1997年4~6月)、西オーストラリア・アート・ギャラリー(パース、1998年2~5月)、台北市立美術館 (1998年8~11月)に巡回。
[4] のち九州大学教授、2021年4月より北九州市立美術館長。
[5] バンコク大学アートギャラリーでの個展「たぶん楽園(Paradise Perhaps)」の会期は1997年11月8日~12月20日なので、後小路、ラワンチャイクン寿子(現・アジ美学芸課長)が会場を訪れたのは開会の9日前。
[6] 「美術前線北上中 東南アジアのニューアート」展の図録では《心のなかの思い》という誤訳に近いタイトルで掲載されています。
[7] Somporn Rodboon, “Chathcai Puipia,” The Second Asia-Pacific Triennial of
Contemporary Art (Brisbane: Queensland Art Gallery, 1996), 93.
[8] 《愛するものに捧ぐ(Dedicated to the One I Love)》(1999年)はヴェラスケスの《イノセント10世の肖像》(c.1650)を下敷きにしている。
[10] Interview by Prijayanat Kalampasut, December 21, 2020, “The Shared Artistic Attributes of Chatchai Puipia, Shone Puipia and Pinaree Sanpitak,” Thailand Tatler.
[11] 奇しくもこの尻のイメージは、1960年代日本の最重要パフォーマンス集団〈ゼロ次元〉の定番の所作である、裸の男性が四つん這いになって並んで尻を見せる「尻蔵界(けつぞうかい)」を思わせます。
[12] Gridthiya Gaweewong , R.J. Preece (ADP),
“Chatchai Puipia interview: Cracking beneath the surface,” Art Design Publicity at ADC, 15 March 2011; First published in ART AsiaPacific, Issue
22, 1999, 71.
[13] アジ美所蔵の「うろうろ」(Han Kwang [Wandering About]、1991年)を含む象を描いたシリーズは、野生動物の保護を訴えた自然保護活動家スープ・ナーカサティアン(Seub Nakhasathien)が1990年に自殺した事件に基づくもので、チャーチャーイ作品のなかで例外的に社会的事件に反応したものです。
[14] Jennifer Gampell, "Desperately Seeking
Chatchai," ART AsiaPacific, Vol.2, No.3, July 1999, 72.
[15] “Chatchai Puipia interview: Cracking beneath
the surface,” 72.