スキップしてメイン コンテンツに移動

おうちで知りたいアジアのアート✏️Vol.8 リー・シュアン

リー・シュアン(李爽)の《赤い子供たちと家の神様》
(旧題《神棚の下の赤い子供》)の謎を解く

館長・運営部長 
黒田雷児

1 〈星星画会〉

 現在開催中のコレクション展「メッセージ アジア女性作家たちの50年」展(6月23日まで、アジアギャラリーB)の最初のコーナーに、きわめて謎めいた絵が掛かっています。リー・シュアン(李爽)の《赤い子供たちと家の神様》(以下『赤い子供たち』)です(これまで《神棚の下の赤い子供》としてましたが、今回の調査をふまえて日本語題名を修正しました。後述。)


挿図1 第2回星星展の李爽とその作品《希望の光》《赤い子供たちと家の神様》
Photograph by Helmut Opletal

 李爽は、1979年に結成された中国現代美術史上最初の前衛美術グループである〈星星画会〉(以下〈星星〉)のメンバーで、この作品はその第2回展(1980年8月20日~9月7日、北京・中国美術館)で発表されました。〈星星〉は、ホアン・ルイ(黄鋭)、マー・ドーション(馬徳昇)らを中心に結成されたグループで、1979年9月の街頭展を創立展とし、1983年8月のグループ展まで活動を続けました。〈星星〉は、共産党による人民の宣伝・教育のための毛沢東様式や高度な技術によるアカデミズムが求められる「全国美術展」とは無縁の、自主独立の美術グループであり、同じ頃の〈無名画会〉や〈草草〉よりも高い政治意識をもち、雑誌『今天』を発行していた詩人や評論家とも連携して、中国美術の新時代を切り開きました。

 ただし〈星星〉は、特定の理念・芸術様式を主張したグループではなく、注目されたワン・コーピン(王克平)による政治的寓意を秘めた作品で代表されるものでもありません。ポスト印象主義、ピカソ、マティス、シャガールなどのヨーロッパのモダニズム様式を取り入れ、政府・美術大学から独立したグループ展により、共産党の理念とは無縁な個人の感性と思想を表現しただけで、十分に革新的だったのです。しばしば「太陽」で象徴された唯一にして絶対的な指導者=毛沢東に対して、自ら「星星」を名乗ったことにも個人を重視するメンバーの姿勢が現れています。

 中国美術館の東隣の公園(「花園」)の鉄柵を使った最初の〈星星〉展は、同美術館で国慶節にあわせて開催中の「建国30周年記念美術展」の会期にぶつけて1979年9月27日から開かれ、官製アカデミズムへの対抗を示すものでした。しかしこの展示は3日目に当局によって「人民の正常な生活と社会秩序を乱す」として中止させられ、その措置に抗議し表現の自由や民主化を求める〈星星〉メンバーの一部は、10月1日、建国以来最初となる「官製」ではない街頭デモを敢行します。『今天』や論壇誌『四五論壇』などからの支持も受けたこの美術家の行動は、「民主の壁」(注)にあらわれた中国社会の変化を示すものとして海外のメディアにも広く報道されました。また会期中には都心部をゆきかう一般市民向けのアンケートをおこない、〈星星〉の前衛的な作品にも好意的な反応が目立ったこと、第2回展が8万人もの観客を得たことから、星星による「解放された思想」(ボ・ユン[薄雲]の言葉)を求める行動が決して孤立したものではなかったことを示しています。
(注)民主の壁=1978年秋頃から1979年3月29日まで、北京中心部の西単で大字報(壁新聞)が発表された壁。中国の民主化運動として国際的に知られる。 


挿図2 第1回星星展(北京・中国美術館横空き地) 左手前から劉迅(北京市美術協会)、李爽、ひとりおいて王克平 1979年9月27日 Photograph by Li Xiaobing
(出典:http://collection.sina.com.cn/ddys/20130819/0904124140.shtml


2 文化大革命の「傷痕」 

 
挿図3 リー・シュアン(李爽)『赤い子供たちと家の神様』 1980年 

 前述のデモにもイェン・リー(厳力)とともに参加した李爽は、〈星星〉創立時では唯一の女性メンバーでした。父親が清華大学の教員であったために、文化大革命時代には「黒五類」(注)のひとつである「右派」として父親は紅衛兵に批判され大学に幽閉され、李家も5回にわたって紅衛兵の捜索を受けるなど、少女時代に家族とともに文革の苦しみを経験しました。骨董商をしていた母方の家族の影響もあって13 歳から絵を描きはじめた李爽は中国青年芸術劇院で舞台美術を担当、〈無名画会〉のメンバーや詩誌『今天』の詩人らによる非公式の文化サロンに出入りするなかで『今天』の黄鋭から誘われて〈星星〉第1回展に参加します。

 1969年、ジャン・ジーシン(張志新)という女性が毛沢東思想を批判して投獄され、1975年に殺害されました。李爽には《赤、白と黒》など、〈星星〉創立展の少し前に名誉回復されたこの張志新の悲劇を扱った作品もありますが、この《赤い子供たち》には直接の政治的メッセージはなさそうに見えます。題名も作品中の図像もあまりに謎めいているため、このたび、フランス在住の作家にメールでインタビューをおこない、初めてこの作品を読み解くヒントを得ることができました。

 中央にいる男の子によりそう犬は作者自身。「黒五類」は個人の価値をその出身階級・経歴から断罪するものなので、その家の子供も「犬畜生の子」と呼ばれ差別されたのです。なおこの作品とともに星星第2回展に出品された木版画作品『荒野のわが友』(当館所蔵)でも自分を犬に象徴させています。左には女の子を守ろうとするような母親がいますが、その首には、作者の心の迷いを表すという不気味な緑色の生き物がまとわりついています。右側に青黒いシルエットだけで描かれた女性は、よく見れば体中に棘が刺さり、文革で家族みんなが受けた苦痛を思わせます。その女性は、中央上の赤いハート形に手を伸ばしています――このハート=赤い心臓は、理不尽な苦しみから家族を解放してくれるかもしれない神的な存在を表します。「黒五類」として糾弾された彼女は、「黒」を否定するかのようにあえてここで熱く息づく心臓を「紅(赤)」で描き、題名としました。赤い心(臓)は、本来は寛大な心で家族を遇してくれるはずなのに誰も助けてくれなかった、という作者の怒りに満ちた詰問を思わせます。右上の気球のような形は、作者が子供のときに見た夢に関係があるようですが、この作品では自由・解放への希求を表していると考えてもよさそうです。
(注)黒五類=文革初期に労働者階級の敵とされ批判された、地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派とその家族。

 するとこの作品は、1979年から中国美術界に登場した、文革時代の悲劇をテーマとした「傷痕芸術」の流れにあるとも考えられます。〈星星〉が登場した年でもある1979年は、路上での紅衛兵の蛮行を描いたチョン・ツォンリン(程叢林)の《1968年X月X日雪》、惹かれあう若い紅衛兵の男女の悲劇を描いた連環画《楓》が発表された年です。これらの高度な写実技巧による重厚な画風と、李爽の即興的で表現主義的な画風はかけ離れていますが、公然と語ることが困難だった文革の悲劇を芸術のテーマとする点で共通していたのです。

 では、そのような意味をこめた「神台下的紅孩」という題はどのように訳せばいいでしょうか。当館ではこれまで《神棚の下の赤い子供》と直訳していましたが、上記のように、ここには中国の伝統的な「神台(神棚)」が具体的に描かれているわけではありません。ここでいう「神」は特定の宗教の神ではなく、暖かく寛大な心をもつ、神のような存在と思われます。紅衛兵や周囲の人々の暴行・糾弾から家族を守ってくれるはずの父親が行方不明であり、その父親に代わって家族の苦しみを本来は理解し、救済してくれるべき存在、本当に存在するかもわからないが絶望や怨恨を超えて求めざるを得ない対象、それが想像された「神」なのでしょう。作者があえて「神」でなく「神台」としたのは、家に常駐して家族を守る存在を明示するためでしょう。以上をふまえて、「子供たち」による、見えないけれども家を守ってくれる神への願いを強調するため、直訳を避けて、日本語題名を《赤い子供たちと家の神様》と改めてみました。

 なお作者は、この《赤い子供たち》を描くことによって父親を家に取り戻したいという願いをこめて描いたそうです。果たしてその願いはかなえられたのでしょうか? 男の子が中央を占めるのに対し、女の子が画面の端に追いやられようとしているのは、男子の子孫を優遇する習慣を示すものでしょうか? そもそも、なぜ作者は、題名となる子供でなく、犬に自らを象徴させたのでしょう? 緑色の生き物と青黒い人物は家族の一員でしょうか、あるいは?――この作品の謎はまだ完全には解明されていないのです。


3 解放された欲動

 《赤い子供たち》全体の様式は、強烈な原色を平面的に配列したマティス、人物や動物が重力を無視して配置されたシャガールの絵などを思い出させますが、〈星星〉第2回展にいっしょに出品された《希望の光》が淡い色調と直線を主とした構成によるのと対照的です。《希望の光》完成後に突然意欲がわきおこって寝床のシーツを裂いて描いたという作者の証言からしても、心中にわきあがるイメージをいっきに吐き出したようです。それはシュルレアリスムのオートマティズム(自動筆記法)を思わせますが、それは意識による抑圧や芸術的配慮を経由しない表現を求める手法でした。前述のように、この作品によって自分の家への父親の帰還を願ったという作者の言葉と、左の母親像にまといつく不気味な生き物は、文革による社会からの迫害という状況だけでは説明がつかない、抑圧された情動も感じさせます。

 李爽は、〈星星〉の活動にも好意的だったフランス大使館の職員、エマニュエル・ベルフロワと交際し、当時は外国人との結婚を禁じていた中国の法律により、1981年9月9日に逮捕されます。それは〈星星〉による政府批判を好ましく思わない政府による介入と思われましたが、他の〈星星〉メンバーは逮捕を免れました。のちこの「李爽事件」は、フランス政府を巻き込んだ釈放運動につながり、そのおかげで1983年に釈放された李爽はフランスに渡り、翌年にベルフロワと結婚します。このエピソードにも、彼女の自由奔放な生き方が現れており、当館所蔵の彼女の木版画作品『離別』(1980年)は恋人との海を隔てた別離を予言していたと作家は考えます。しかし『赤い子供たち』に見る激しい表現を、この「事件」に現れた「女性性」によって説明するべきではありません。なぜなら、〈星星〉の短い運動がめざしたものは、アカデミズムやプロパガンダでは決して表現することができない、政治や社会の規範と衝突せざるをえない個人の激情や欲動の解放であったからです。そう考えると、主導者であった黄鋭の明快な構成、王克平のグロテスクなイメージによる政治性などよく知られた〈星星〉の作品と比べても、この『赤い子供たち』は、内面の鬱屈をストレートに解放した点で、〈星星〉の重要な一面を代表する作品ともいえるでしょう。

 ここで再び〈星星〉メンバーにもどって考えれば、中央美術学院で美術史や壁画を学んだ作家や、アイ・ウェイウェイ(艾未未)や李爽のように舞台美術の仕事をした作家がいますが、専業美術家は北京画員のシャオ・フェイ(邵飛)くらいで、ほとんどは正式の美術教育を受けていないアマチュア画家でした。中心人物の黄鋭も詩人として出発しました。すると当然、全アジアでも最高度の技術を身につけた美術学校卒業生と比べれば、〈星星〉作品のほとんどは技術の稚拙さを隠せません。しかし、〈星星〉がアマチュア美術家であったからこそ、官製美術展・美術教育の枠内では絶対に不可能だった「前衛的」実験につきすすむことができたとも考えられます。実際には〈星星〉作品には、寓意や象徴性のない、人物・風景・静物を写生しただけの作品も多く見られます。〈無名画会〉と同じく、いっさいの政治的効果や社会的認知への野心を顧慮せず、純粋に「描く喜び」を解放させるというアマチュア精神こそが、中国の特殊な状況では歴史的な転換を起こすことができたのです。

 1980年代半ばに「85美術運動」として中国各地で爆発した前衛美術は芸術内の実験に専心し、1990年代以後に世界を制覇していった中国美術が国際展のスペクタクルと強力な美術市場に吸収されていったことを考えれば、政治との対決をもおそれずアマチュア精神で表現の欲動を解放した〈星星〉の短命の活動は、現在の美術状況のなかでこそみずみずしさをとりもどすのではないでしょうか。

参考文献

呂澎、易丹『中國現代藝術史 1979-1989』(長沙:湖南美術出版社、1992年)
許静璇編『星星十年』(企画:張頌仁)、香港:漢雅軒2、1989年 Hui Ching-shuen, Janny (Ed.) The Stars: 10 Years (curator: Chang Tsong-zung) (Hong Kong: Hanart 2, 1989)
牧陽一『アヴァン・チャイナ―中国の現代アート』(東京:木魂社、1998年)
東京画廊、田畑幸人『要芸術自由・星星20年』(東京:東京画廊、2000年)
李爽访谈(王静によるインタビュー、2007年8月)星星画会(The Stars Art)ウェブサイト
霍少霞『星星藝術家:中国當代藝術的先鋒1979-2000』(台北:藝術家出版社、2007年)
Kuiyi & Andrews Julia F. Shen, Blooming in the Shadows: Unofficial Chinese Art, 1974 - 1985 (New York: China Institute Gallery, 2011)
陳海茵「中国現代アートとアクティビズムにおける『政治』の多義性――ポスト文革期の前衛芸術グループ『星星画会』を事例に――」、『年報カルチュラル・スタディーズ』5号(カルチュラル・スタディーズ学会、2017)、97-118.