1 『ラーマーヤナ』の物語
3月29日まで開催中の「ヒンドゥーの神々の物語」展にかこつけて『マハーバーラタ』について2回にわたってぐだぐだ書きましたが、同展もあと1か月ほどになりましたので、『マハーバーラタ』と並ぶインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』についてもぐだぐだ書かなければなりません。なぜ「書かなければ」?――後述のように、展示作品では『ラーマーヤナ』関係の作品のほうが『マハーバーラタ』関係よりもはるかに多いからです。
まずは『ラーマーヤナ』がどういうお話なのか紹介しましょう。『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』よりも短いだけでなく物語の構造がはるかに単純です。『マハーバーラタ』には全編を貫く絶対的な主人公がおらず多数の英雄たちが過去から現在まで長大な歴史のなかで現れては消えていくのに対し、『ラーマーヤナ』はラーマというひとりの英雄的主人公をめぐる物語で、そのストーリーもラーマの苦難と戦い、勝利まで、直線的に、比較的短い時間軸で展開します。
作者不詳《森へ追放されるラーマ》 福岡アジア美術館所蔵
しかしその間、ランカ(現スリランカ)の羅刹(ラクシャサ、悪鬼)ラーヴァナにシーターを奪われてしまいます。(下図参照 『マハーバーラタ』の英雄たちと同じようにラーマもこういう失策をするのです。鳥はシーターを救おうとしてラーヴァナに敗れた霊鳥ジャターユ。)
そこでラーマはシーターを捜索するうちに猿王スグリーヴァと出会い、スグリーヴァの依頼によってその兄ヴァーリンを倒す(それも卑劣なやり方で…)ことでスグリーヴァとその強大かつ膨大な猿軍団の協力を得ます。そのスグリーヴァの軍師が、インドだけでなくアジア各地の『ラーマーヤナ』ではおなじみの猿ハヌマーンです。猿軍団に助けられ、インド大陸からランカ島に海神の助けを借りて渡り、激しい戦闘のすえにラーヴァナの息子インドラジットら強大な戦士を次々にうち負かし、ラーマはついにシーターを救出し、14年間の追放を終えてアヨーディヤーに戻って王位につくというハッピーエンド……でも後述のように実はそうではないのです。
2 過剰な言語表現
第一には、『ラーマーヤナ』の登場人物は、『マハーバーラタ』よりも歴史的実在性に縛られず、特にラーマとハヌマーンは、ヒンドゥーの神・女神と同等の崇拝の対象になっているからです。第二に、これは勝手な推測ですが、ハヌマーンとラーヴァナが示すような超人間的なキャラクターが活躍し、クライマックスの戦闘も、『マハーバーラタ』のクルクシェートラの戦いのようなリアリズムが通用しない、猿[2]軍団を指揮して海を渡ってランカの要塞を責めるという巨大スケールと想像力の飛翔を伴うものであり、図像(イメージ)化への欲求(それが困難なものも含め)を誘うからでしょう。その途方もなさの一例が、ハヌマーンが、戦いで傷ついたラクシュマナを救う薬草を求めて、薬がどこにあるかわからず山の頂きをまるごと持って来てしまうというエピソードです(下図参照)。そもそもハヌマーンは空を飛べるし、体の大きさを自由自在に変えられるウルトラマン(昭和世代ですみません)なのです。
このような「壮大強烈な想像力」(阿部知二)による物語ですから、アビシェーク・シンの『ラーマーヤナ3392A.D.』であれ、永井豪によるマンガ化であれ、SF仕立てにアレンジできるのです。前回のブログで『三国志』みたいに『マハーバーラタ』をマンガで読めないかと書きましたが、この永井豪版『ラーマーヤナ』=『神話大戦』はこの古典のおもしろさを手軽に味わうには悪くありません。何しろ永井は、『ハレンチ学園』から『デビルマン』『バイオレンスジャック』などの、お色気(死語)とバイオレンスに満ちたアナーキーな作品でマンガ史に残る傑作を残した人ですから。「ラーマが童顔すぎ貫禄がない」「SF的キャラやメカが安っぽい」「シーターがかわいくない」(好みによるが…)「お色気シーンが原作を逸脱している」(まあ永井豪だし…)というツッコミはご勝手に。
アビシェーク・シンによる現代のグラフィック・ノベルの絵(下図参照)でも同様ですが、上から見たらどうなっているのでしょう?(昔日本各地のホテルとかレストランにあった回転する展望台みたいになっている?)
ムケーシュ・シンの絵(下図参照)では胴体に接した首のまわりから腕のようなもので9つの頭が伸びているという工夫をしてます。これならアニメ化もフィギュア化もできますね。
しかしこのような工夫をしても、原作の文章表現による視覚化不可能な過剰さを著しく限定(矮小化)してしまうことは避けられません。後述の阿部知二版でも短縮版とはいえ二段組460ページ(1,400枚=560,000字)の長さですから、ストーリーを追うだけの訳書ではわからない変な表現を見つける楽しみもあります。たとえば、呪いで眠っているラーヴァナの弟クンパカルナを戦闘に参加させるために目覚めさせる方法=「一万頭の象が、高速度をもって彼の体躯を踏みにじった」…… いったいどんな情景なんだ! ありえねー!!!
3 文学作品としての『ラーマーヤナ』
このように「文章 text」と「図像 image」の乖離が気になるのは、私がこのたび阿部知二が英語版から編訳した『ラーマーヤナ』を読んで、物語の展開には必要のなさそうなやたらに長いセリフ、これでもかこれでもかと比喩が連なる美辞麗句にあふれていることがわかったからです。だいぶ昔に初めて読んだのは、『マハーバーラタ』と同じレグルス文庫[3]でしたが、そこでは『ラーマーヤナ』の比較的単純な筋を手軽にたどることができても、この古典を深く味わうには不十分だったのです。なぜ阿部知二版にしたかというのは簡単な理由で、近年の縮約版(中村了昭や池田運による全訳は読むの大変すぎ…)のうち、1冊になっていて、かつ原作に近いディテールが読めるのは河出書房新社の世界文学全集版だけだったからです。
1959~66年に刊行されたこの全集100巻のうちアジア文学は、中国の古典『紅楼夢』、日本とかかわりの深い魯迅、そして『ラーマーヤナ』だけ。その完結の直後(1966~70年)に刊行されていた筑摩書房の『世界文学全集』には、アジアから『論語』、『史記』、『唐詩選』、『西遊記』、そしてまたも魯迅が入ってますが、『ラーマーヤナ』はありません。『マハーバーラタ』がまだ人間のリアルな精神の揺らぎを扱っているのと比べると『ラーマーヤナ』はるかに荒唐無稽で、文学全集に含まれたヨーロッパ近代小説と同等に「文学」として読んでいいものかと思われるでしょう。それでも河出書房新社の文学全集に『ラーマーヤナ』が入っているのは、訳者であり編集委員[4]のひとりだった阿部知二の推薦によるのかもしれません。英文学者の阿部は、1942年に「徴用」でインドネシアのジャワ島に行ってインドの大叙事詩のことを知り、戦後の1961年に「アジア・アフリカ作家会議」のためにセイロン(現スリランカ)訪問、ラーヴァナがシーターを幽閉していたとされる場所を訪れて『ラーマーヤナ』を想起したというのは、日本の文学者と南アジア文化の出会いとして興味深い例です[5]。彼はインド文化やサンスクリット文学の専門ではないものの、複数の英訳書を参照して、時代背景などを補足する注や解説をつけてくれているのも河出書房新社版をお薦めできる理由です。
阿部ら編集委員が『ラーマーヤナ』を「世界文学」に伍するに値するとしたのは、単なる童話やマンガやアニメ向けのおもしろいお話にとどまらない深さを『ラーマーヤナ』が持っていると評価したからでしょう。ひとつの理由は、先に述べたような、視覚的形象を超えた過剰で奔放な言語表現からかもしれませんが、それにとどまらず、人間の弱さや運命の過酷さという、『マハーバーラタ』と同じく現代にも通じる普遍的なテーマが現れているからかもしれません。前述のように『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』よりも人間離れした登場人物(神、悪鬼、動物を含む)が活躍するといっても、根本的には、神々でなく人間のお話だともいえます。ラーヴァナはいかなる神々にも負けない力を与えられているにもかかわらず、人間(ラーマ)にだけは滅ぼされるという設定は象徴的です。神々よりラーヴァナが強く、ラーヴァナよりラーマが強いわけですから、神々より強い人間がいるということです。あまりに超人的な活躍のためにラーマはのちヴィシュヌ神の化身とされますが、『マハーバーラタ』でパーンダヴァ軍を支援するクリシュナが神であるにもかかわらず倫理にもとる行動をして最後は死を迎えるように、クリシュナであれラーマであれ、いやラーヴァナさえも、その行動も思考もあくまで人間のものなのです。そこで展覧会での「ヒンドゥーの神々の物語」は、現代・日本からかけ離れた場所・時代の物語ではなく、あくまでも「人間の物語」として見ることもできるということになります。
4 ホモソーシャルな結末
しかし『ラーマーヤナ』を、神々の寓話としてでも、荒唐無稽なSFとしてでなく、人間の物語として読むということは、この古典の暗部にも向き合わないといけないことをも意味します。(以下「ネタバレ」がありますので、これから虚心に『ラーマーヤナ』を読んでみようという人は読まないように。)
ラーヴァナとの戦闘で負傷したラクシュマナを前に、ラーマは奇妙なことを言います。「妻ならばいずこの地にも見出し得、友ならばいずこにも求め得るが、かかる弟をいずこへゆけば持ち得るのか」。愛妻シーターを救うためにこそ大変な苦労をして(スグリーヴァやハヌマーンにものすごく迷惑かけて…)ラーヴァナと戦っていたと思っていた読者はこのせりふにとまどうでしょう。さらにこの前後のラーマのせりふからは、まるでラクシュマナが彼の恋人のように思われます。すると、現代社会学用語を知っている人は、二人には「ホモソーシャル」(男性たちが女性を排除した親密な集団を作ること)な関係があると思ってしまいます。実際、『ラーマーヤナ』には、ヒロインのシーターを含め、女性が主体的に発言・行動する場面はほとんどありません。行動する女性といえば、ラーマの追放を求めた王妃カイケーイとその侍女マンタラー、大戦争のきっかけとなったラーヴァナの妹のシュールパナカーという悪役ですし、長いせりふを言うのは、スグリーヴァの兄でラーマに殺されたヴァ―リンの妻ターラー、やはりラーマに殺されたラーヴァナの妻マンドーダリーの延々続く嘆きくらいで、これらの女性は男どうしの戦いの結果を受け入れることしかできません。
『ラーマーヤナ』の「ホモソーシャル」な性格(男どうしの絆を重視し女性を排除する)を決定づけるのは、物語の最後近くにあるラーマのせりふです。大戦争の勝利によって、長くラーヴァナにとらわれていたシーターと感動の再会を果たすだろう……という読者の期待を完全に裏切って、ラーマは次のように言い放ちます。「余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄(いてき)の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。」――それまでの英雄譚も愛の物語も台無しにしてしまうショッキングなせりふです。そこでシーターは火の中に身を投じ神々に守られて自らの潔白を証明するのですが、後世に付け加えられた最終巻では、シーターへの悪い風評が王の妻としてふさわしくないという判断から、シーターは離縁されてしまいます。この最終巻はまったく余計なものとされているようですが、上記のラーマのセリフはその前の巻にあるものですから、「文学」としての整合性・完結性を期待する読者には、「ラーマひどすぎる!」「がっかり!」「あれだけ多くの犠牲を出した戦いは何のためだったんだ!」「それが暴力によって拉致され監禁されたシーターに言うことか!」「シーターあまりにもかわいそう!」……と、現代人の読む「文学」としてはまったく受け入れがたい結末です。しかし、このような不条理で悲劇的な結末こそ、近代的な「文学」として回収できない、男性中心主義の本質的な暴力性を伝えているのかもしれません……とすれば『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』以上に現代的な物語として読むことができるのかもしれません!
一見あまりに単純であまりに古めかしい『ラーマーヤナ』が、東南アジアまで広がる無数のバージョン、現代のマンガやグラフィック・ノベル、アニメまで再解釈され編集され続けるのは、時代と地域を超えた物語としての潜在力を『ラーマーヤナ』が持っているからに他ならないでしょう。
黒田雷児(学術交流専門員)
参考文献
*はアジ美図書所蔵 **は1,2巻のみ所蔵
*ヴァールミーキ(阿部知二訳)『ラーマーヤナ』(世界文学全集Ⅲ-2)、河出書房新社、1966年
*河田清史『ラーマーヤナ インド古典物語 (上) (下)』 (レグルス文庫)、 第三文明社 1971年
*永井豪『神話大戦1・2 ラーマーヤナ編 上・下』、徳間書店、1996年
*ツルシダース(池田運訳)『ラーマヤン ラーム神王行伝の湖』、講談社出版サービスセンター、2003年
**ヴァールミーキ(中村了昭訳) 『新訳 ラーマーヤナ (1)~(7) 』(東洋文庫)、平凡社、2012-13年
デーヴァダッタ・パトナーヤク (沖田瑞穂、上京恵訳)『インド神話物語 ラーマーヤナ 上・下』 原書房 2020年