間があいてしまいそうこうしているうちにまた追悼文がネットに出ました。
今や「レガシー」として記憶される1994年・福岡のことはすでにこのブログ(「あのときのリー・ウェンから思うこと(また改訂)」、2017年11月14日)で書き、また平成の福岡美術を回顧する新聞記事(ARTNEにも掲載)でもふれられているので繰り返しません。
第4回アジア美術展で5日にわたって続けられた「イエローマンの旅 自由への指標」をずっと見ていたわけではありませんが、黙々と床にお米で地図や文字や記号を描き続けることで世界の富や食料の不均衡な分配について沈思し(このテーマは当時の藤浩志にも見られるもので、第4回アジア美術展で出会ったふたりが意気投合したのもそのためでしょう)、都市空間のなかでの「異物」としての自分をさらけ出しつつ、籠に入った羽のオブジェで、「自由」のわずかな可能性を探求。5日目には空っぽの茶碗からご飯を食べる仕草と声にならない苦しみの表現に涙を流す人もいました。リー・ウェンによるおそらくすべてのパフォーマンスにいえることですが、場とタイミングを巧妙に利用しつつもその表現が強烈な印象を与えるのは、時空間への才気ある介入方法と、自虐的ユーモアをはらみながらも身を危険にさらす真剣さ、そして孤独や痛ましさを乗り越える希望を捨てない強靭な意志よるのです。ちなみにリー・ウェンの父親は文筆家で詩人。このときの作品にも、リーによる長い文章がつけられていますし、前述の論文ほか多くの文章を残しています(作家およびAAAのサイトでリンク)。ときにはグロテスクなまでに物質性を露出するパフォーマンスを支えているのは言語に鍛えられた彼の思考なのです。
1995年のこの写真は、第4回アジア美術展が世田谷美術館に巡回したとき。写真右はパキスタン出身のニロファール・アクムット、左は今やアジア現代美術の大スターとなった説明無用のナウィン・ラワンチャイクン(24歳! 当時の表記は「ナヴィン・ラワンチャイクル」)といっしょにファミレスで食事をしたときのリー・ウェン。シャッターを押したのが藤浩志だったことが別ショットでわかります。藤さんの車で移動していたのですがもし事故っていたらアジア美術史の巨大な損失だったでしょう。(つづく)