「サンシャワー」展の紹介にはならないかもしれないけど、この機会に、どうしても書かせてもらいたいことがあります。
展示中の「イエローマンの旅」の記録写真のひとつに、輪郭だけで人体が描かれている床に置かれた白い布のカットがあるのにお気づきでしょうか。
日にちは1994年9月30日。そう、イエローマンが天神でのパフォーマンスを決行した日です。よく使われる新天町の写真のあのとき。その写真では左側に帽子に口髭というあやしい男性がうしろにいますが、現F市美術館のN副館長(伏字の意味なし)です。それはともかく。
イエローマンがIMS(福岡以外の人のため…「イムズ」と読みます。横書きで手書きすると「仏(ほとけ)ズ」になっちゃいます。どうでもよかった)を訪れると、地下二階に大きな布を広げて制作中だったのが、あの小沢剛です。FT1作家。彼は第4回アジア美術展と同時期に開催され、正式に協力関係を結んでいたミュージアム・シティ・天神(MCT)に参加していたのです。(話はそれますが、当時長期間海外研修中で私が福岡にいないときに、福岡市美のIY学芸課長がMCTの山野真悟氏(現・黄金町エリアマネジメントセンター)に相互協力を提案したと伝え聞いたとき、ついにMCTが美術館にも認知されたかと、すごく感激した覚えがあります。
で、話を戻し、小沢氏がIMSで制作していたのは、「なすび新聞」です。彼の重要な作品である「なすび画廊」は、内側を白く塗った牛乳箱を、東京の狭小な空間で狭い美術業界のなかだけで成立している日本の美術の慣習を皮肉った、彼ならではの楽しさと批評性とコラボレーションを伴う作品でした。当時の小沢氏は、手書きのファックス(!!!)での「なすび新聞」を発行していました(私もそれを受け取っていて、福岡市美術館の「ネオ・ダダの写真」展の広告をのせてもらったこともあります)。この1994のMCTでは、いろいろな作家(会田誠!福田美蘭!村上隆!中村政人!ほかの今や豪華メンバー!)に展示してもらった「なすび画廊」を天神各所に展示し(小さいから融通きくのです)、また「なすび新聞」の巨大版をIMSで制作していたのです。そこに現れたのがイエローマンで(小沢氏はたぶん予期していなかったと思うが)、即座にその場でイエローマンの登場がニュースにしようと、リー・ウェンが布の上に横たわり、体の輪郭を描かれたのです。たぶん(見てないから)。[編注:記録写真では確認できませんでしたが、のちリー・ウェンの証言から、次のことがわかりました。本番前日の29日にリーが天神を訪れたとき、この場所で新聞を制作中だった小沢からここでパフォーマンスをしないかと提案したそうです。そのときは普段着のリーは、布の上に横たわり、小沢氏が輪郭を描きました。30日には黄色く塗った体の上に黒い服を着てこの場所を再訪したリーは、自分の体の絵に合わせてその上に横たわり、新聞の上で転がった。]これは30日の写真です。
あのオシャレな商業ビルのIMSでよくもこんなしょぼい作品を(失礼)と思いますが、もっと驚くべきことは、この「なすび新聞」、天神でも最高の広告スペースといってもいいIMS正面のバナーとして掲げられたのです!
字が小さくて読めないぞ! 市ヶ谷自衛隊で三島由紀夫が掲げた檄文も読めないが!(どうでもいい連想ですみません) 手元に写真がないので記録集「ミュージアム・シティ・天神'94, Fukuoka, Japan[超郊外]」(ミュージアム・シティ・プロジェクト発行、1995年)から(著作権法でいうところの)「引用」させていただきました。本のノドにかかるレイアウトが残念……
広告代とればいくらになるかわかりませんが、経済効率考えたら絶対にしないですよね。というのも、IMSはMCT以前に芸術祭をやっていて、商業空間での現代アート展開に積極的で、MCP(Museum City Projectです、Malayan Communist Partyではありません。って誰もそう思わないって)のメンバーにもなっていたのです。
ちなみに記録写真では、同じ日、イエローマンは、IMSの三菱地所アルティアムで開催されていた山出(やまいで)淳也の個展を見に行ってます。この名前聞いたことあるって?そう、今や別府のアートプロジェクトで全国に知られるあの山出氏です。話しはまたそれるけど、彼は翌1995年に私がコミッショナーとなって(なぜ当時「キュレーター」と言わなかったのか謎)第7回バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレに参加してます(阿部守が最高賞です、あと風倉匠がパフォーマンス)。1994年のアジア美術展は、あのナウィン・ラワンチャイクンの日本でのデビューですから、このころにアジア各地で「交流型」作家が登場しはじめていたのですね。同じアジア展に出た藤浩志、中村政人両氏もその流れにあり、藤氏は「かえっこ」などのプロジェクトや十和田市現代美術館の運営、中村氏は3331 Arts Chiyodaの開設・運営と、社会システムと美術を接続するオーガナイザーとしての才能を発揮していったわけです。今年4月に3331 Arts Chiyodaでリー・ウェン展が開かれたのもこのときの縁でしょう。
ついでに、リー・ウェンが「サンシャワー」初日のトークで少しわかりにくかった事実を整理しておきます。彼が「イエローマン」として街に出たのはこの9月30日だけでなく、10月7日の「博多少年アート」もあったということです。これは小沢、中村政人らが、東京でやってきた「新宿少年アート」「ギンブラート」の流れで、一日だけ限定された都市空間で自己責任のもとに誰が何をしてもいいというイベントで、中洲エリアで行われました。私は忙しすぎてほとんど見てません。福岡市美の某学芸員がおこなったカエルちゃんパフォーマンスも記録で見ただけ。ヘリ・ドノも参加したはずだが(カエルではありません)何をやったか不明。中洲のバーでのうちあげでパフォーマンス?やったのは見たのだけど…… この東京組主導のイベントでも、「なすび画廊」でも、MCTでも、今みたいに地域振興とか観光とかまったく念頭にない時代におこなわれた「美術の外」に出るイベントのほうが今日の国際芸術祭のあまりにものわかりのよすぎるプロジェクトよりはるかにおもしろかったと思うのは私だけでしょうか。
なお記録によれば、この「博多少年アート」の3日前にリー・ウェンは藤浩志らと、今をときめく草間彌生!のトークを聞きにいってます。今だったら絶対に草間さんのMCTへの参加はありえないですよね… なおこのときに草間さんが天神の福岡銀行前!に置いたカボチャ作品が、福岡市美術館に収蔵されました、大濠公園側エントランスにあったアレです。これも「1994年」のレガシーです。
この前の1991年に福岡でMCPが企画した「非常口 中国前衛美術家展」は、前年のMCTに参加した蔡国強(ツァイ・グオチャン)が、天安門事件以後に行き場を失った中国の前衛美術家にとって福岡が「非常口」となりうると期待したからこそ実現したのです。これは中国国外では全世界で2番目の中国前衛美術家展となりました。
このことも考慮すると、1990年代初頭の福岡には、国内とアジアから意欲的なアーティストを集める吸引力があったということはまちがいありません。
アジ美ブログ史上最長?で書かせていただいたのは、「サンシャワー」でのリー・ウェンの再来が、おそらく当時の全世界でも最もアートに活気があったのでは?!と思わせる、「奇跡」といってもいいあの「1994年の福岡」のことと、そこで起こったさまざまな人たちの出会い、その人たちの今へと、次々と連想が広がっていき、ノスタルジーであることは否定しませんが、とにかく、そのようなことがこの福岡という、アジアのなかでも決して大規模とはいえない街で起こったということを、そのとき、そこにいなかった人に、今後の福岡の、アジアの、世界の美術を考える材料にしていただきたいからです。
展示中の「イエローマンの旅」の記録写真のひとつに、輪郭だけで人体が描かれている床に置かれた白い布のカットがあるのにお気づきでしょうか。
日にちは1994年9月30日。そう、イエローマンが天神でのパフォーマンスを決行した日です。よく使われる新天町の写真のあのとき。その写真では左側に帽子に口髭というあやしい男性がうしろにいますが、現F市美術館のN副館長(伏字の意味なし)です。それはともかく。
イエローマンがIMS(福岡以外の人のため…「イムズ」と読みます。横書きで手書きすると「仏(ほとけ)ズ」になっちゃいます。どうでもよかった)を訪れると、地下二階に大きな布を広げて制作中だったのが、あの小沢剛です。FT1作家。彼は第4回アジア美術展と同時期に開催され、正式に協力関係を結んでいたミュージアム・シティ・天神(MCT)に参加していたのです。(話はそれますが、当時長期間海外研修中で私が福岡にいないときに、福岡市美のIY学芸課長がMCTの山野真悟氏(現・黄金町エリアマネジメントセンター)に相互協力を提案したと伝え聞いたとき、ついにMCTが美術館にも認知されたかと、すごく感激した覚えがあります。
で、話を戻し、小沢氏がIMSで制作していたのは、「なすび新聞」です。彼の重要な作品である「なすび画廊」は、内側を白く塗った牛乳箱を、東京の狭小な空間で狭い美術業界のなかだけで成立している日本の美術の慣習を皮肉った、彼ならではの楽しさと批評性とコラボレーションを伴う作品でした。当時の小沢氏は、手書きのファックス(!!!)での「なすび新聞」を発行していました(私もそれを受け取っていて、福岡市美術館の「ネオ・ダダの写真」展の広告をのせてもらったこともあります)。この1994のMCTでは、いろいろな作家(会田誠!福田美蘭!村上隆!中村政人!ほかの今や豪華メンバー!)に展示してもらった「なすび画廊」を天神各所に展示し(小さいから融通きくのです)、また「なすび新聞」の巨大版をIMSで制作していたのです。そこに現れたのがイエローマンで(小沢氏はたぶん予期していなかったと思うが)、即座にその場でイエローマンの登場がニュースにしようと、リー・ウェンが布の上に横たわり、体の輪郭を描かれたのです。たぶん(見てないから)。[編注:記録写真では確認できませんでしたが、のちリー・ウェンの証言から、次のことがわかりました。本番前日の29日にリーが天神を訪れたとき、この場所で新聞を制作中だった小沢からここでパフォーマンスをしないかと提案したそうです。そのときは普段着のリーは、布の上に横たわり、小沢氏が輪郭を描きました。30日には黄色く塗った体の上に黒い服を着てこの場所を再訪したリーは、自分の体の絵に合わせてその上に横たわり、新聞の上で転がった。]これは30日の写真です。
あのオシャレな商業ビルのIMSでよくもこんなしょぼい作品を(失礼)と思いますが、もっと驚くべきことは、この「なすび新聞」、天神でも最高の広告スペースといってもいいIMS正面のバナーとして掲げられたのです!
字が小さくて読めないぞ! 市ヶ谷自衛隊で三島由紀夫が掲げた檄文も読めないが!(どうでもいい連想ですみません) 手元に写真がないので記録集「ミュージアム・シティ・天神'94, Fukuoka, Japan[超郊外]」(ミュージアム・シティ・プロジェクト発行、1995年)から(著作権法でいうところの)「引用」させていただきました。本のノドにかかるレイアウトが残念……
広告代とればいくらになるかわかりませんが、経済効率考えたら絶対にしないですよね。というのも、IMSはMCT以前に芸術祭をやっていて、商業空間での現代アート展開に積極的で、MCP(Museum City Projectです、Malayan Communist Partyではありません。って誰もそう思わないって)のメンバーにもなっていたのです。
ちなみに記録写真では、同じ日、イエローマンは、IMSの三菱地所アルティアムで開催されていた山出(やまいで)淳也の個展を見に行ってます。この名前聞いたことあるって?そう、今や別府のアートプロジェクトで全国に知られるあの山出氏です。話しはまたそれるけど、彼は翌1995年に私がコミッショナーとなって(なぜ当時「キュレーター」と言わなかったのか謎)第7回バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレに参加してます(阿部守が最高賞です、あと風倉匠がパフォーマンス)。1994年のアジア美術展は、あのナウィン・ラワンチャイクンの日本でのデビューですから、このころにアジア各地で「交流型」作家が登場しはじめていたのですね。同じアジア展に出た藤浩志、中村政人両氏もその流れにあり、藤氏は「かえっこ」などのプロジェクトや十和田市現代美術館の運営、中村氏は3331 Arts Chiyodaの開設・運営と、社会システムと美術を接続するオーガナイザーとしての才能を発揮していったわけです。今年4月に3331 Arts Chiyodaでリー・ウェン展が開かれたのもこのときの縁でしょう。
ついでに、リー・ウェンが「サンシャワー」初日のトークで少しわかりにくかった事実を整理しておきます。彼が「イエローマン」として街に出たのはこの9月30日だけでなく、10月7日の「博多少年アート」もあったということです。これは小沢、中村政人らが、東京でやってきた「新宿少年アート」「ギンブラート」の流れで、一日だけ限定された都市空間で自己責任のもとに誰が何をしてもいいというイベントで、中洲エリアで行われました。私は忙しすぎてほとんど見てません。福岡市美の某学芸員がおこなったカエルちゃんパフォーマンスも記録で見ただけ。ヘリ・ドノも参加したはずだが(カエルではありません)何をやったか不明。中洲のバーでのうちあげでパフォーマンス?やったのは見たのだけど…… この東京組主導のイベントでも、「なすび画廊」でも、MCTでも、今みたいに地域振興とか観光とかまったく念頭にない時代におこなわれた「美術の外」に出るイベントのほうが今日の国際芸術祭のあまりにものわかりのよすぎるプロジェクトよりはるかにおもしろかったと思うのは私だけでしょうか。
なお記録によれば、この「博多少年アート」の3日前にリー・ウェンは藤浩志らと、今をときめく草間彌生!のトークを聞きにいってます。今だったら絶対に草間さんのMCTへの参加はありえないですよね… なおこのときに草間さんが天神の福岡銀行前!に置いたカボチャ作品が、福岡市美術館に収蔵されました、大濠公園側エントランスにあったアレです。これも「1994年」のレガシーです。
この前の1991年に福岡でMCPが企画した「非常口 中国前衛美術家展」は、前年のMCTに参加した蔡国強(ツァイ・グオチャン)が、天安門事件以後に行き場を失った中国の前衛美術家にとって福岡が「非常口」となりうると期待したからこそ実現したのです。これは中国国外では全世界で2番目の中国前衛美術家展となりました。
このことも考慮すると、1990年代初頭の福岡には、国内とアジアから意欲的なアーティストを集める吸引力があったということはまちがいありません。
アジ美ブログ史上最長?で書かせていただいたのは、「サンシャワー」でのリー・ウェンの再来が、おそらく当時の全世界でも最もアートに活気があったのでは?!と思わせる、「奇跡」といってもいいあの「1994年の福岡」のことと、そこで起こったさまざまな人たちの出会い、その人たちの今へと、次々と連想が広がっていき、ノスタルジーであることは否定しませんが、とにかく、そのようなことがこの福岡という、アジアのなかでも決して大規模とはいえない街で起こったということを、そのとき、そこにいなかった人に、今後の福岡の、アジアの、世界の美術を考える材料にしていただきたいからです。
と、黒田運営部長が言ってます。(ししお)
Sorry too long for English translation. [Shishio]