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♯おうちであじび ✏️おうちで知りたいアジアのアート✏️ Vol.4

当館アジアギャラリーでは「あじび研究所」と題して、2018年度より全7回にわたって所蔵品1点を深掘りしてきました。本ブログでは、当時の展示を写真とテキストで振り返ります。

第4回目は、インドネシア近代彫刻の巨匠シダルタによる作品です。女神はなぜ涙を流しているのでしょうか? シダルタの言葉、そして激動の戦後史とともに見ていきます。

グレゴリウス・シダルタ・スギジョ(インドネシア)
Gregorius Sidharta Soegijo (Indonesia)


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作品名:泣く女神(Weeping Goddess)
原 題:Tangisan Dewi Bathari
素 材:チーク材(顔、胴体)、マホガニー材(手足)、
    皮(腕)、アクリル絵具、髪、鏡、指輪、縄ほか
サイズ:高さ233×幅77cm
制作年:1977年
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インドネシア生まれの彫刻家、版画家。ヘンドラ・グナワンの主宰するサンガル・プルキス・ラキャット(人民画塾)に学んだ後、ジョクジャカルタに創設されたインドネシア芸術大学(ASRI)に入学。卒業後オランダのヤン・ファン・アイク美術アカデミーに留学。帰国後は、バンドン工科大学などで教鞭をとる。早くから抽象表現を追及してきたが、次第にインドネシア固有の民族的伝統を参照した絵画・彫刻を制作するようになる。その後、インドネシア美術家連盟を創設し、IAAの事務局長を勤めるなど、美術家の組織化に尽力。福岡のアジア美術展の開催にも貢献した。インドネシア近代彫刻のパイオニアのひとりで、多くの公共彫刻を手がけている。

女神は、なぜ涙しているのだろうか?(作者の言葉から)

「《泣く女神》は、伝統回帰をはたして最初に作った彫刻です。」

「インドネシア各地の装飾性を取り入れるだけでなく、技法に関しても穴の開け方や髪の毛の編み方など、伝統から多くを学びました。」

「ある人々は、鏡によって悪霊を追い払えると信じているのです。」

「西洋からやってきた近代文化の巨大資本によって、インドネシアに息づいていた文化が破壊されてしまったのです。そのときにわたしは、女神が涙する声を聞きました。彼女はこの大地を支配する巨大複合企業に懇願しているのです。」


シダルタの生きた激動のインドネシア戦後史


 アジアギャラリー展示風景

1932年:10人兄弟の三男としてインドネシアのジョグジャカルタに生まれる。
1941-1945年:太平洋戦争
1945-1949年:インドネシア独立戦争
1949年:ヘンドラ・グナワン率いる画塾「サンガル・プルキス・ラキャット」で学ぶ。


 ヘンドラ・グナワン《しらみとりとクロカン》1950年頃
 福岡アジア美術館所蔵

1950年:ジョグジャカルタに設立された「インドネシア美術アカデミー(略称ASRI。後のインドネシア芸術大学)」の1期生として学ぶ。当時は社会主義リアリズムが主流。
1951年:ASRI同期生のウィダヤットら10人程度と「インドネシア青年画家」を結成。

★シダルタの分岐点1
1953-1957年:オランダの「ヤン・ファン・アイク造形芸術アカデミー」へ留学。モダニズムにおける抽象表現を学ぶ。

1957年:帰国後、「スラカルタ芸術アカデミー」を設立。ジョグジャカルタのASRI彫刻科で教えはじめる。この頃は、オランダ留学の影響で抽象的な作品(シダルタが言うところの「モダンアート」)を制作。ジョグジャカルタにおいてはじめてモダンアートを紹介するが、インドネシア共産党の下部組織レクラ(人民文化協会)などから厳しい批判を受ける。
1962年:結婚。後に4人の子どもをもうける。
1965年:前年にASRIを辞職したが、ブット・モフタルに誘われて「バンドン工科大学(略称ITB)」で教えはじめる。


 バンドン工科大学美術学部(1978年撮影)

★インドネシア美術の分岐点
1965年:クーデター「9月30日事件」を契機にスカルノ大統領が失脚。新たなスハルト体制のもと、共産主義者や華僑への大虐殺がおこなわれる。
それ以前はレクラを中心に社会主義リアリズムが主流だったが、次第に抽象表現(モダンアート)が受け入れられはじめる。

1966年:「11人のバンドンのアーティスト展」をジャカルタで開催。抽象表現が評価される。参加作家:シダルタ、サダリ、モフタル・アピン、ブット・モフタル、リダ・ウィダヤット、ピロウス、カブル、スリハディ、カルティカほか

★シダルタの分岐点2
1973年:シダルタが中心となりスタジオ「デセンタ」を設立(1980年脱退)。モダニズムを捨てて、伝統に回帰しはじめた年。ITBの同僚たちからは反対されたが、ピロウス、スタント、プリヤントらが応援。

1977年:伝統回帰後の初めての彫刻《泣く女神》を制作。展覧会のために制作した作品ではないが、その後「第4回インド・トリエンナーレ」に出品。
1978年:IAA事務局長として、福岡市美術館のインドネシア調査に協力。


 調査団を迎えるインドネシア作家たち(右から3人目がシダルタ)

1980年:福岡市美術館で開催された「アジア現代美術展」に参加。
1997年:エルガーラ・パサージュ広場(福岡市中央区)に彫刻作品《バランスと方向性》を設置。
2006年: 74歳で死去。

(担当学芸員 中尾智路)



あじび研究所Ⅳ
グレゴリウス・シダルタ・スギジョ《泣く女神》
福岡アジア美術館 アジアギャラリー
2018年1月2日~3月26日