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♯おうちであじび ✏️おうちで知りたいアジアのアート✏️ Vol.3

当館アジアギャラリーでは「あじび研究所」と題して、2018年度より全7回に渡って作品1点を深掘りするコーナー展示を試みました。
本ブログでは、その時の写真やテキストを改めてご紹介します。

第3回目は、1966年にパキスタンで上映された大ヒット映画「切望」のポスターです。



パキスタンのカラーチーで製作された映画「切望」(1966年)は、パキスタンでは75週間連続興行収入1位を達成し、南アジア全域で大ヒットした映画です。本作は映画ポスターを専門とする画家のA.H.マハヴァルが手掛けたもので、中央で寄り添う男女は、主演男優のワヒード・ムラッドと主演女優のズィバ。背景の林は、ヒロインが住むパキスタン北部の避暑地マリーの山あいです。ここでくりひろげられる悲恋を暗示するかのうように、モスグリーンを基調とした淡い色合いで、原画の濃淡や柔らかさが再現できるリトグラフの技法で刷られています。


A.H. マハヴァル(パキスタン)
《切望》1966年
リトグラフ・紙
福岡アジア美術館所蔵

当館では、本作を含め、1960-90年代のパキスタン映画のポスターを約100点所蔵しています。そのきっかけは、パキスタン、カラーチー生まれの現代美術作家ドゥリヤ・カジが収集している映画ポスターでした。彼女は日常生活のなかの生命力にあふれた大衆美術に惹かれ、自身の作品にそうした要素を取り入れると同時に、映画ポスターの収集と研究をしていたのです。その後、当館では、彼女の協力を得て2006年に「生活とアートⅣ ロリウッド!―パキスタンの映画ポスター」展を開催しましたが、そこで紹介した一部を当館で所蔵することになったのです。

「生活とアートⅣ ロリウッド!―パキスタンの映画ポスター」展図録

大ヒット映画「切望(Armaan)」

映画「切望」は、パキスタンのカラーチーで製作され、1966年3月18日、カラーチーのナズ・シネマを皮切りに全国で公開されました。「切望」はパキスタン映画史上初の75週間連続興行収入1位という記録を達成し、南アジア全域で大ヒットしました。パキスタンの映画賞、ニガー・アワードでは、最優秀映画賞、最優秀監督賞、最優秀主演女優賞、最優秀音楽賞、最優秀プレイバックシンガー賞、最優秀コメディアン賞の6部門を受賞しました。

「切望」の成功は、パキスタン映画の新時代の幕あけでした。カラーチーを拠点とする、若き20代の映画人たちの才能が、見事に融合した映画だったのです。主演と製作を務めたのはワヒード・ムラッドで、父ニサール・ムラッドの映画配給会社フィルム・アートで製作の仕事にも携わっていました。監督はワヒード・ムラッドの幼なじみのパルヴィズ・アハメッドで、カリフォルニア大学で映画製作の修士号を得て帰国したところでした。また、挿入歌の歌詞を書いたマスルール・アンワール、そして作曲家のショハイル・ラナは、今なお歌い継がれる人気曲——物悲しい「私を置いていかないで(Akele Na Jaana)」やポップな「コリナよ(Ko-Ko-Korina)」などを提供しました。そして、ワヒード・ムラッドに俳優の道を勧めた女優のズィバ。こうした若手たちが、「切望」の大ヒットを機に、パキスタン映画のスターとして躍り出たのです。新世代の映画人たちは、1960年代に何本もの映画をともに手掛け、パキスタン映画の最盛期を生み出しました。

主演男優ワヒード・ムラッドと主演女優ズィバ


Source: Mushtaq Gazdar, Pakistan Cinema 1947-1997, Oxford University Press, 1997

ワヒード・ムラッド Waheed Murad(1938-1983年)

「切望」で大スターとなったワヒード・ムラッドは、その後もかずかずの恋愛映画に出演しました。美しい姿に甘く優しい声、巧みな演技から、「チョコレート・ヒーロー」と呼ばれて、パキスタン映画最初のアイドルとして人々に愛されました。しかしながら、その人気ゆえ、共演する女優たちの夫がワヒードとの共演を許さず出演の機会が減り、最期は死因がわからないまま45歳の若さで亡くなっています。1959-83年までの活動期間に、124本もの映画に出演し、1960-70年代の伝説の映画俳優となりました。

また、ワヒード・ムラッドは俳優としてだけではなく、父ニサール・ムラッドが設立したフィルム・アート社で、「切望」を含めて11本の映画の製作や脚本を手掛け、そのどれもがヒットを記録しています。

ズィバ Zeba(1945年- )

1960年代初頭から80年代まで活躍した女優で、「切望」での受賞を含め3回もの最優秀主演女優賞を受賞。45人もの映画監督のもとでその美しさを開花させました。ズィバは、ワヒード・ムラッドが映画製作者だった頃から一緒に仕事をしており、彼に俳優となるきっかけを与えたひとりです。ワヒード・ムラッドとは、「切望」を含め数本の映画に共演しましたが、同じ映画俳優のモハメド・アリと結婚した後は、夫との共演映画にのみ出演しました。当時のパキスタン映画界では、夫婦で主演男優・女優を務めることが多くあったのです。

パキスタンの映画産業「ロリウッド」

「切望」は、カラーチーで製作された映画ですが、当時パキスタンの映画産業の中心地は北部の古都ラホールでした。このラホール(Lahore)の名にちなみ、パキスタンの映画文化・産業は「ロリウッド(Lollywood)」と呼ばれてきました。アメリカのハリウッドやインドのボリウッド(ボンベイ[現ムンバイ]の映画産業)をもじった呼び名です。

インド亜大陸では、イギリス植民地時代の1920年代にすでに映画製作が始まっています。現パキスタンのラホールのほか、現インドのボンベイ、カルカッタ[現コルカタ]などが映画製作の拠点で、製作者たちは各拠点を越えて頻繁に交流していました。1947年にパキスタンとインドが分かれて独立した後は、パキスタンではラホールを中心に映画が製作され、1960-70年代の最盛期には年間100本以上の作品が上映されました。近年は、インターネットなどの技術革新が進むとともに映画産業は縮小し、多くの製作会社や配給会社などが集まっていたラホール中心街の地域ロイヤル・パークも、かつての賑わいを失っています。

映画ポスター

1960⁻70年代に最盛期を迎えたパキスタン映画業界では、手描きの映画ポスターが主な広報媒体でした。当時、映画製作会社が軒を連ねていたラホール中心地のロイヤル・パーク地域では、道という道の壁には映画ポスターが貼り重ねられ、壁が見えないほどだったといいます。しかし、新しい映画がかかるたびにポスターが作られ、次の映画が封切られれば貼りかえられていく一過性の広告媒体は、なかなか後世まで保存されることがありませんでした。

映画「切望」は、カラーチーで製作されたため、ポスターの原画を手掛けたのもカラーチーを拠点とするA.H.マハヴァルでした。当館が所蔵する他のパキスタン映画のポスターも手掛けていることから、当時活躍した画家であることは推測されますが、詳しくはわかっていません。映画のポスター画家になるには、10歳くらいで師匠のもとに弟子入りし、経験を積んで独り立ちすることになりました。なお、印刷は、ラホールの印刷会社FOCUSです(ポスター左下参照)。

「切望」のポスターは、モスグリーンの落ち着いた色合いが印象的です。背景に描かれている林は、主人公の2人が初めて出会った地で、パキスタン北部の首都イスラマバードから車で1時間半ほど行った高原の避暑地マリーです。マリーはイギリス植民地時代の1850年代からのリゾート地で、ヒロインが住んでいるという設定でした。ポスターでは、その木々に囲まれたマリーの雰囲気を伝えるため、タイトルの「ARMAAN」のアルファベット文字が丸太のロゴになっています。ちなみに、映画のタイトルは、画面の右端にウルドゥー語とベンガル語でも書かれています。映画が封切られた1966年当時のパキスタンは、インドをはさんで西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)の2つに分かれた飛び地国家で、それぞれウルドゥー語とベンガル語が主に使われていたため、映画のタイトルも3つのアルファベットで表記されているのです。

モスグリーンの林の前には、ヒーローとヒロインが寄り添う姿が描かれています。しかし、実はこのシーンは映画の中には出てきません。広報用に撮られた写真をもとに描かれたものです(右写真)。ポスター画家は、こうした広報写真や映画の中の印象的な場面を選び、ときに手描きに写真を組み合わせるなどして、ポスター用の印象に残る画面構成を作り上げました。その「演出」によって、ヒーローはより強くかっこよく、甘く優しい男性に、ヒロインもより美しく情感豊かな女性に描かれたのです。映画ポスターとは、単に映画の広報をするだけではなく、「俳優をスターに仕立てる」道具でした。

ストーリー

「切望(Armaan)」
(1966年、モノクロ、約3時間、ウルドゥー語)
監督 パルヴェズ・マリック
脚本・製作 ワヒード・ムラッド
音楽 ソハイル・ラナ
撮影 ナジール・ホセイン
キャスト ワヒード・ムラッド、ズィバ
製作会社 フィルム・アーツ

パキスタン北部の避暑地マリーで、伯母とその娘のシーマとドリーと一緒に暮らすナジマ(主演女優ズィバ)は、シーマの願いで、密かにシーマの未婚の子を村人に預けて育てていた。

そこに、亡き伯父の友人の息子ナシール(主演男優ワヒード・ムラッド)らが訪ねてくる。ナシールは、ナイト・クラブに通うような都会の男性であり、父親はそんな息子を心配して、結婚相手を決めようと、マリーへ行かせたのである。

マリーで出会ったナジマとナシールは、美しい山々を散策するうちに心を通わせていくのだが、ある日、ナシールは、シーマの子をナジマの実子と勘違いして傷つき、カラーチーに戻ってしまう。ナジマは、シーマとの約束を守って真実を告げず、ナシールは父の強引なすすめでシーマと結婚してしまうのである。

一方、悲嘆にくれながらも子を育てていたナジマは、ある時、村人の甥に乱暴されそうになり、シーマの子を抱えて、カラーチーのナシールとシーマのもとへと逃げることになるのだが、その頃、シーマの元へは、子どもの父親であるシュヘルから、シーマに会いたいという手紙がしきりに届くようになっていた。結局、ショヘルが、ナジマが育てている子は、シーマと自分の子であるという真実を明かしたことで、ナシールのナジマに対する誤解は解けるが、実母であるシーマは罪悪感に苛まれ服毒自殺してしまう。

ナジマはマリーに戻るも、すぐに再び村人の甥に見つかってしまい、逃げる最中に鉄橋から川に転落してしまう。事故を知ったナシールは、絶望的な気持ちをかかえて、カラーチーからマリーを訪ね、崖から飛び降りようとする。そのとき、哀歌「私を置いていかないで」がどこからか聞こえてくる。それは、一命を取り留め、崖のうえにナシールの姿を見つけたナジマが、必死の思いで彼を引き留めようとした歌声だったのである。
                         (担当学芸員 五十嵐理奈)

参考文献
Mushtaq Gazdar, Pakistan Cinema 1947-1997, Oxford University Press, 1997

あじび研究所Ⅲ A.H.マハヴァル《切望》
福岡アジア美術館 アジアギャラリー
2018/9/20~12/25

A. H. Mahver (Pakistan)
Longing (Armaan)1966
lithograph on paper
Collection of Fukuoka Asian Art Museum