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シンガポールで見た熱帯の近代美術……という文脈を超えて

 11月下旬にお休みをとって久しぶりにシンガポールに行ってきました。コロナ明け後初めての海外旅行でした。安い航空券があったと思ったら燃料サーチャージがやたら高い!だからというわけではないですが激安のホテルを探してキャンセル代不要というのでいったん予約したら「うちはカーテンで区切るベッドだけでロッカーもないがいいか」と、えらく親切な(笑)確認(警告)メールきたので即キャンセルして、特別価格でお得なホテル(個室)に変更。眺めがよさそうな名前のホテルだけど窓のない部屋でしたが。

シンガポール美術館(Singapore Art Museum)は改装中なのでギャラリーの集まる倉庫のスペースを借りて、最近日本での立て続けの大型個展で注目されたホー・ズーニエンの個展アジ美所蔵作家です)。アジア文明博物館国立博物館、シンガポール大学美術館もそれぞれジミながら興味深い展覧会をやってましたが、今回の目玉は、国立ギャラリー(National Gallery Singapore)の「熱帯 東南アジアとラテンアメリカの物語(Tropical: Stories from Southeast Asia and Latin America)」。この巨大美術館の開館記念展にはアジ美の所蔵品を多数長期貸し出ししたことを覚えてますか? 東南アジアに重点があるとはいえ、アジア広域の、特に近代美術の歴史を掘り起こしていく美術館としては世界随一で、特に、東南アジアと欧米を含む世界各地との交流や関係を探求する点でも意欲的であり、この「熱帯」展もそのような美術館の底力を誇る展覧会といっていいでしょう。

 この展覧会は、東南アジアとラテンアメリカの近代美術が、ヨーロッパと米国による植民地化と、そこからの自由と独立を求める運動として展開したという両地域の共通性から出発しています。そこで両地域の平行・対比を見せるため、床から立ち上がる透明パネル(「クリスタル・イーゼル」)に2作品をセットで見せるというきわめて大胆な展示をおこなっていました。

Gallery 1: 怠惰な現地人という神話(The Myth of the Lazy Native) 

それによって異なる地域の作品の組み合わせが明確になるだけでなく、観客は会場に入って真正面に、宙に浮いたような多数の作品と対峙するというインパクトも与えます。(なおキャプションと作品解説は裏面にあります。支持体が透明なので絵の裏側も見れます。)このような大胆な展示(地震のある日本では所蔵者の許可が得られないかも…)のアイディアもまた、1968年のブラジルのサンパウロ美術館での建築家リナ・ボ ・バルディ(Lina Bo Bardi)による実験に基づくそうです。自画像などの人物画の部屋も、木製の構造で床から立ち上がる絵画群と向き合い、さらにその全体が鏡に映るというのは壮観でしたが、観客も描かれた人物のなかに張り込んで自分を見つめるという仕掛けはあまり機能していなかったような……

Gallery 2: この人間の大地(This Earth of Mankind)
人物画コーナー(左は鏡に映ったところ) 
右はライオネル・ウェントの写真

  展覧会の途中から東南アジアとラテンアメリカの関係は見えにくくなり、最後のGallery 3では完全に分離したまま混在してしまい、ブラジル60年代の風土性や民族性を生かした実験に対応するものは東南アジアでは見られず、盛り下がってしまったのは残念でした。

Gallery 3: 転覆(The Subversive)
左はモンティエン・ブンマー、右奥ロベルト・フェレオ

 ただし欲張らずに地域と時代を限定すれば――たとえば革命(1911年)以後のメキシコ美術の、アジア美術における影響というのは、アジ美の所蔵作品だけでもいくつもの実例を見出すことができます。

    カルロス・フランシスコ《教育による進歩》(1964年)

    サティーシュ・グジュラール《有罪者》(1957年)

    オ・ユン《大地-5》(1983年)

 フィリピン、インド、韓国と、時代も地域も異なるこれらの作品には、メキシコの壁画運動、シケイロス、リヴェラ、オロスコらの影響があります。探せばアジ美所蔵品でももっと見つかりそうです。なお日本でも、メキシコで活動した北川民次、竹田鎮三郎、利根山光人らに限らず、1955年に東京他で開かれた「メキシコ美術展」が当時の若い美術家にも強い印象を与えました。そのなかには、のち「日付絵画」によって国際的評価を得る河原温もいました。美術評論家の中原佑介もメキシコ美術にしばしば言及し本まで出しているのは意外です(『1930年代のメキシコ』、メタローグ、1994年)。ですからアジアとラテンアメリカの美術の影響や共鳴関係は探究しがいのある大テーマになるでしょう。

  話を「熱帯」展に戻します。展覧会の趣旨、ストーリーを追うだけが展覧会の経験ではありません。私にとって何より衝撃的だったのは、複雑な構成と膨大な展示物のなかからただひとつ浮かび上がる、それも小ぶりな作品です。 

ヘンドラ・グナワンTjitji

1949年、油彩・メゾナイトにマウントした紙、64 x 49 cm

シンガポール国立ギャラリー所蔵

 インドネシアがオランダとの戦争を経て独立を達成する過程での、女性の政治活動家を描いた作品ですが、まるで鮮血を塗り付けたような赤と緑、逆光のなかでの強烈なまなざし、不自然に広い肩幅、すばやくページをめくるような本の表現、妙に立体的なボタン…… いかにもぎごちなく未完成な造形のようで様式的にも破綻していますが、この作家の後年の、ジャワの人形劇で使われる人形のように様式化されすぎた作品と比べると、緊張した時代に短時間ですさまじい集中力で描かれたことは伝わります。この作品は前述の「クリスタル・イーゼル」で同じインドネシア近代美術を牽引したスジョヨノの作品とペアで展示されていたのですが、この絵だけはいかなる比較も不要でした。燃えるような表現はたしかに「熱帯」的といえますが、この作品の熱量は風土性を超えています。
 この画家の活動歴を調べれば、彼がインドネシア独立の前後の長い年月にわたって、近代美術運動を進めた作品制作のみならず政治闘争にも深く関与していたことがわかります。独立前の反日・反オランダ闘争から、独立後の〈LEKRA〉(民衆文化連盟)に至るその左派的活動から、1965年の「9・30事件」以後の共産主義者およびその嫌疑をかけられた人々の大量虐殺の時代に、12年もの長期間投獄されていました。出獄後には大量の大作を描き続け、インドネシアの国民的画家であり美術市場でも高値をつける人気作家となりましたが、1940-50年代の作品には、闘争する芸術家としての彼の生き方が刻まれていたのです。

 もちろん「熱帯」展には他にいくつも印象的な作品がありますし、上述のように大変意欲的な展覧会であったことは確かなのですが、広範な地域と激動の歴史を物語る多数の展示物のなかでも、いかなる説明も背景も抜きにして(実際、この女性の肖像画だけでは作家の活動歴はわからない)、直観的につくられた一枚の絵が、時代を象徴する(=iconicな)記録として歴史に刻印され後世に伝わることもあるということです。それはやはり歴史資料を超えた芸術の力というべきでしょう。

 飛躍を承知でいえば、この作品の血のような絵具と、女性のもつ本から、魯迅の名言を思い出しました――

「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。」

(墨写的谎言,决掩不住血写的事实)

学術交流専門員 黒田雷児