2020年3月13日金曜日

1990年的在福岡蔡國強(から思うこと) Recall from Cai Guoqiang in 1990 Fukuoka

千葉県の美術館で紙をテーマとした中国現代美術展。蔡國強(ツァイ・グオチャン)が1990年のミュージアム・シティ・天神のために制作した作品2点をアジ美から貸し出し。ほかアジ美関係作家では建安(アジ美での読みはウー・ジエンアン)。
20日開会となっていますが、行かれる前に再度HPで開館状況をご確認ください。)

このときの作品です(蔡スタジオのサイト)
この作品が図解している福岡・北天神(長浜船溜、今もあるKBC塔近くの空き地)での準備過程と爆発の瞬間を記録した映像(ミュージアム・シティ・プロジェクト提供)も世界初公開!!!!(笑)。

蔡さんが、小雨降る日暮れに、ほぼ関係者しか見ていない中、地面をはいずり泥にまみれて爆発プロジェクトを延々準備し、当時は無名の中国人作家を周りの人が期待感をもって手伝い、また見守る情景は、のちに彼が世界的アーティストとなったことを思えば、ある意味では感動的です。
若き日のらーさんが手伝おうにも何をしていいかわからずおろおろしてます(笑)

最初、このくらいまで書いてフェイスブックにのせようと思ったら、らーさんが「思い出すことなど」あるというのでブログ前提に続けます。

らーさんが蔡さん(ツァイでなく、当時みんな「さいさん」と呼んでた)に会ったのは198911月、岡山の牛窓国際芸術祭でした。彼は出品作家ではなかったのですが(出品はウー・マーリー含む台湾、韓国、日本作家)、蔡さんはシンポジウムで19892月の中国美術館での歴史的な中国現代美術展にいたる80年代の中国前衛美術を紹介する発表者として来ていたのです。翌年2月に蔡さんが大阪府立現代美術センターで黄鋭(ホアン・ルイ、中国最初の前衛美術グループ〈星星〉メンバー)と二人展をやったときに、らーさんは(仕事の都合か?で)夜行バスで大阪まで行った覚えがあります(ほぼ満席だったので最前列で対向車線のヘッドライトで眠れない)。そのさらにあとだと思いますが、らーさんが東京で蔡さんの展覧会を見たあとだったろうか?当時取手にいた蔡さんの家に行くと、蔡さんが文明の展開を図解しながら壮大な彼の思想(忘れたけど)を語ってくれたことがあります。ちなみにその家の床の間にパンダを描いた水墨画?の掛け軸があって、彼のお父さんが描いた?とか言ってたような… 後年私は蔡さんとの早い出会いの証拠にこのパンダ画の写真を探したのですがどうしても見つかりませんでした。
1989年で中国と言えば天安門事件。アジア展史では第3回アジア美術展(福岡市美術館)で、中国作品はみな「全国美術展」系の写実的に少数民族を描くような油絵ばかり。しかし中国美術は1985年の「八五美術運動」に象徴されるように、10年に満たない短期間にあらゆる種類の実験が展開して一気に全アジア最先端に到達、その結果、天安門事件の数か月前の北京の展覧会での様々な事件にいたります。その過程は、蔡さんの報告や、東京の千葉成夫や東京画廊、ギャラリーQなどによって東京の美術業界にも知られていきました。ちなみに、1980年から中国美術をアジア展で紹介してきた福岡市美術館の誰一人、のちに世界を制覇した中国現代美術の源流である80年代前衛美術を知らなかったのです。
この1989年はなんていいだすときりがないんですが、後小路雅弘・福岡市美学芸員(のちアジ美初代学芸課長)がパリで「大地の魔術師たち(英語)」展を見て衝撃を受けた年でもあるのです。翌19901月には東京で国際交流基金アセアン文化センター創立。この流れの盛り上がりまでここで書くのは別のストーリーなので別の機会に。(福岡美術最盛期のことはこのブログ別記事「あのときのリー・ウェンから思うこと(また改訂)」参照)

1990年のミュージアム・シティ・天神(MCT)の作家選考にはらーさんも関わって、1980年代後半に日本各地で見た心ひかれる作家を多数推薦しています。しかし蔡さんを推薦したのではなく、山野真悟氏が旧知のギャラリーからの推薦でした。山野氏からこの作家の名前を見せられて、ああこの作家なら知ってますよ、と言った覚えがあります。
1990年のMCTは今思えば(いや当時でも)無謀極まりない、多くの作家を天神ほか都心部で展示させれるプランで、私も一部しか知らない無数のトラブルが発生してたのではないでしょうか。蔡さんははじめ天神ど真ん中のビルの駐車場?かなんかで火薬画を作ろうとして、一回の爆発だけで爆音のあともうもうと煙がたちのぼり…… 誰がこの蛮行(?)を収めたのかわかりません。
このときの火薬画に書かれた文字や図解を見れば、宇宙人の着陸跡かともいわれたミステリーサークル型に爆発させるアイディアは、天神の西日本新聞社屋上と、天神中央公園との交渉が不首尾となり、北天神の空き地になったことがわかります。その交渉の過程にはらーさんは関わってません。ただ蔡さんの滞在が延び、展覧会会期(917日~114日)はまだ途中でも、106日、火薬イベントには困難な雨の日に決行しなければならない事情があったと推測されます。
映像を見ればわかりますが、地面が濡れないように大きなビニールシートで覆ったなかを蔡さんが段ボール、火薬、導火線、レンガなどを必死に設置しています。全体の長さは200mだったなら、爆発はわずか2秒。それも地上からは誰もミステリーサークルの形なんて見えません。にもかかわらずらーさんはこの爆発には鮮烈な印象を受けています。

 蔡さんはこの1990年に、福岡が日本で(当時としては世界で?)唯一アジア現代美術を継続的に紹介してきたことと、のちミュージアム・シティ・プロジェクト(MCP)と名乗ることになる組織に期待して、翌1991年、フランス在住だった費大為(フェイ・ダーウェイ)をキュレーターに、MCP、三菱地所アルティアムほかの主催、アルティアムと福岡市の東の郊外の広大な空き地で蔡さん、ホアン・ヨンピンら5人の中国作家による「非常口 中国前衛美術家展」が開かれます。「非常口」の企画にはらーさんは関与してませんし、これはもう次のストーリーですので詳細は別の機会にしますが、1991年に蔡さんが行ったプロジェクトの映像(去年の「アジア美術、100年の旅」で上映)を見せるたびに、らーさんがこの爆発イベントを見たその瞬間に「自分のなかで『アジア現代美術』が誕生した」と語っていることだけを付け加えておきます。

(ししお)

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