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日本(語)で読むアジア美術  「アジア美術資料室」に文献データベース追加

 このたび、ウェブサイト「アジア美術資料室に文献データベースを新設し、年表データベースも追加しました。下記のトップページで赤線で囲んだメニューからいろいろなキーワードで検索してみてください。

文献データベース日本語1622件、英語882件。(英語のほうが少ないのは、このウェブサイト自体が日本語利用者を主な対象としているので、英語は日本語のあるもの、つまり日本で出版された日英バイリンガルの文献だけを掲載しているからです。)あまりにデータが膨大になるのを避けるため、新聞記事は原則的に掲載せず、雑誌も学術誌や美術専門誌を基本としているうえ、文献の選択も私の経験と判断に基づくために決して網羅的ではありません。ですから、実際にはこの数字をはるかに上回る回数で、日本語によるアジア近現代美術文献が出版されたことになります。しかし、このような限定をふまえつつも、掲載分だけで1000件を優に超える日本語文献があることに驚かれるのではないでしょうか。

上の画面は「詳細検索」で、「対象地域」の「インド」を選んで検索、刊行年を古→新で並び替え(ソート)したもの。一番古いのは、1916年発行の『ビヂットラ美術学校印度画集』 、これはこの年の59月に来日したインドのノーベル賞詩人ラビンドラナート・タゴール(ベンガル語読み=ロビンドロナト・タクル)が東京で開催した展覧会の図録で、インド近代美術の創成を告げる作品群が掲載されています。これに先立つ19023年に岡倉天心、横山大観、菱田春草がインドでタゴールとその一族に出会い、インド画家による「ウォッシュ・テクニック」誕生の契機となったのはアジア近代美術史上最も輝かしい美術家交流の1ページであり、その交流の成果としてこの展覧会があったのです。

なおその次に古い「アジア美術家会議の報告」(1959年)書いた阿部展也(のぶや、本名は芳文、191371年)とは、戦前に瀧口修造にも評価されたシュルレアリスム画家で、戦後の荒廃した風景を象徴的に描いて美術史に名を残す人です。興味深いことに、阿部は、1942年マニラで開かれた、フェルナンド・アモルソロヴィクトリオ・エダデスらフィリピン近代美術の重要作家が出席した「日比美術家交歓会」に参加(翌年に、なんとフィリピン女優と結婚!)、おそらく英語力があったのでしょう、戦後も日本美術家連盟の国際交流に貢献したようです。上記の記事も、1956年ボンベイ(現ムンバイ)で開かれた「アジア美術家会議」に参加した記録です。この阿部のフィリピン時代の活動については、愛知県美術館紀要に書かれた副田一穂の論文ネットで読めます。

そしてみっつめの「アジア現代美術の諸問題」を書いた本間正義とは、当時、東京国立近代美術館の事業課長で、美術評論家としても知られ、国立国際美術館や埼玉県立近代美術館の館長を務めた重要人物です。この文章は1968年のインド・トリエンナーレに審査員として招かれた本間が、デリーとボンベイ(現ムンバイ)でインドの現代美術に接した貴重な記録です。ふたつ下の記事にあるように、同美術館は1970年に「現代インド絵画展」を開くことになるので、同年のアジア発の国際博覧会=大阪万博とともに、国機関もアジアの文化に目を向ける大きな流れにあったのかもしれません。(ただこの流れは長く中断することになりますが……そのへんの状況を調べるとおもしろいかもしれません。「欠落」もまた情報なのです。)

一番下の福沢一郎は日本のシュルレアリスムの代表的な画家です。彼がインド美術について「インド的なものが、国際常用語の抽象主義によってあまりうすめられないものでありたい」と述べているのは、当時は避けられないオリエンタリズムだけでなく(じゃあ日本の美術はどうなの、とツッこみたくなりませんか?)、福沢自身の芸術観も語っているようで興味深いです。

以上のどれも、日本の重要な美術(関係者)とアジアの美術(家)の出会いの記録であるように、この文献データベースも、現在まで至る日本と他のアジアの美術関係者との、知られざる、しかし決して少ないとも重要でないともいえない交流の歴史をたどるものです。古い記事では情報不足や書き手の日本人の偏見を避けられないこともありますが、だからといってアジア交流の記録としての価値が失われるわけではありません。 

 この文献と年表のデータ入力をしながらわかったのは、戦後のアジア作家の日本での発表が、1950年代の貸画廊での個展から始まり、60年代後半から国立美術館や大阪万博などの国家的な組織や新聞社による展覧会、80年代になると画廊の企画や民間での作家グループの交流が盛んになり、90年代以後には福岡市美術館と国際交流基金および各地の美術館や民間団体での展覧会が激増し、今や美術館や国際展でアジア作家が日本で発表するのは常態化したという流れです。それに伴い多数の展覧会図録が出版されてきたわけですが、しかし特に注目したいのは、これらの展覧会とは関係なく、一般書店でも買うことができる書籍の増加です。

「詳細検索」の「資料種別」で、「書籍」を選んで検索してみてください。なんと265件(417日現在)も出ます。なかには書店で市販されていない論文集やパンフレットなどもありますが、刊行年を新→古でソートしてみれば、ここ5年ほどの間に基礎文献といえるボリュームと精度のある単行本があいついで刊行されているのがわかります。例として、古川美佳韓国の民衆美術(ミンジュン・アート) 抵抗の美学と思想(岩波書店、2018年)、白凛[ペク・ルン]在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録(明石書店、2021年)、二村淳子ベトナム近代美術史 フランス支配下の半世紀(原書房、2021年)、古沢ゆりあ民族衣装を着た聖母 近現代フィリピンの美術、信仰、アイデンティティ』(清水弘文堂書房2021年)、廣田緑『協働と共生のネットワーク インドネシア現代美術の民族誌(グラムブックス、2022年)、インドネシアや中国などアジア各地で活動した日本人画家についての横田香世パステル画家 矢崎千代二 風景の鼓動を写す』(思文閣出版、2023年)、そして先月の最新刊、呉孟晋『移ろう前衛 中国から台湾への絵画のモダニズムと日本』(中央公論美術出版、2024年)まで。以上は日本人著者のものですが、翻訳書でも、潘公凱中国現代美術の道(石井理、高宮紀子、庚地訳、左右社、2020年)、洪善杓[ホン・ソンピョ]韓国近代美術史 甲午改革から1950年代まで(稲葉真以・米津篤八訳、2020年)はどちらも情報量の多い本格的な美術史です。

日本との関連が深い東アジアに未だ偏り、インドほか南アジア近代美術の本はありませんが、どれも日本人または日本ベースの研究者・訳者たちによる、中国語・韓国語・ベトナム語・インドネシア語そしてフランス語などの文献・資料を自在に使いこなす語学力と長年の調査なしには不可能な情報と見識が満載のものばかりで、それが一般の書店でも購入でき図書館で閲覧できるのはアジア近現代美術の普及のためには大きな進歩といえます。各地域のごく基本的な近代美術の流れを日本語で読みたくても、入手しにくい、それも限られた、決して包括的とはいえない展覧会図録の文章に依存するしかなかったときとは隔世の感があります。

 これら書籍に対して、膨大な数になる日本で発行された展覧会図録は、今もなお美術館図書室や古書で見つけるしかありませんし、学術論文でインターネットからダウンロード、プリントできるものがあってもごく一部です。そのなかで、1990年代以後の日本における多数のアジア美術の展覧会やシンポジウムのうち、国際交流基金による刊行物の多くはネット上で文章まで読むことができるのは大助かりです。たとえば、「Art Studies 03 アンソロジー 東南アジア美術の歴史を形づくる」、初代学芸課長の後小路雅弘氏や私が書いた文章も掲載されており、アジ美図書室でも閲覧できますが、上記サイトからスキャンが読めます。

 また国会図書館 大学図書館ジャパン・サーチ、美術では東京文化財研究所美術図書館など、インターネット技術やデジタル化の進展により、膨大な所蔵館を対象に横断検索できるようになりました。国立アートリサーチセンター国内美術館の所蔵品検索英訳文献サイトも役立ちます。昨年11月に、全国的にも珍しいオンラインでの所蔵図書検索を始めたアジ美の図書室とともに、ぜひいろいろな文献探しに挑戦してみてください。

 ただし、これらの巨大かつ多様なオンライン・データベースがあっても、展覧会の論文まで検索できるわけではありません。「アジア近現代美術」という視点で検索できる文献データベースが必要であること、それとここで述べたような日本とアジアの美術交流の歴史を考えるためにも、この「資料室」で文献データベースを開設したのです。

 

最後に、今回追加された年表について。

追加は680件で、合計1415件になります(和英同数)。そのうち、日本での事項・展覧会は、約半数の736件、うち557件が今回の追加です。つまり、文献について述べたように、日本におけるアジア美術の紹介に重点をおいて追加したわけです。基本的な使い方は過去のブログでの6回にわたる「使い方指南」をご覧ください。

年表の追加分についてもいろいろ興味深いことがわかるのですが機能にもデータにもだまだ成長過程にありますので、また別の機会に。

(学術交流専門員 黒田雷児)