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おうちで知りたいアジアのアート Vol. 11 「わが黄金のベンガルよ」展によせて-1(美術史篇) 日本で学んだバングラデシュ作家たち

今年はバングラデシュ独立50周年で、それを記念して当館でもバングラデシュ作品を主とするコレクション展「わが黄金のベンガルよ」 を開催中(12/25まで)。


バングラデシュはアジアのなかでも観光資源が乏しいせいか、日本人にはなじみのない国かもしれません。たとえば日本でよく知られた海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」では、インド篇は1979年に欧米篇の市販が始まってまもない1981年にシリーズ初の’82-’83版が刊行されているのに対し、バングラデシュ篇はそれから30年近く後、2010年刊の’11-’12版が最初です(注1)。しかし、アジ美の所蔵品数では、リキシャ関係やポスターなどの大衆美術が多いため、インド(1099点)、中国(993点)に続いて3位の276点です(2021年6月現在)。しかも福岡市美のアジア展やアジ美の事業以外でも、美術分野で意外にバングラデシュは日本とのつながりはあります。
注1 「地球の歩き方 バングラデシュ ’11-’12」には当館五十嵐理奈学芸員が執筆したコラム「大地が育む鮮やかな色彩 工芸とアート」を掲載。アートカフェの明治通り側旅行ガイドコーナーに配架しています。

現在「アジア美術」を冠した国際展には台中の国立台湾美術館によるビエンナーレ(亞洲藝術雙年展)がありますが、最も早く「アジア美術」の継続的な国際展を開いたのは、1980年の福岡市美術館による「アジア現代美術展」(1985年から「アジア美術展」)の翌年に、福岡モデルに学んで開催された、バングラデシュ・アジア現代美術展なのです(1983年から「バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレ」として継続)。ちなみにその1981年の展覧会に招かれたのは、ブータン、中国、インド、インドネシア、日本、クウェート、北朝鮮、韓国、マレーシア、ネパール、パキスタン、スリランカ、タイ、バングラデシュの美術家でした(注2)。隣国のインドで1968年から始まった「インド・トリエンナーレ」がアジア地域限定でなかったのと比べると。バングラデシュの主催者のほうが「アジア」意識(野心?)が強かったといえます。1981年展の図録にはこうあります。「この芸術祭が目指す目的は、活気があり人気のある美術を一堂に会し、実り豊かなアジアの協働の場とすることである。」(バングラデシュ・シルパカラ・アカデミー事務局長サイド・ジルール・ラーマン)
注2 前年の福岡市美術館のアジア現代美術展と比べれば、日本(福岡)展にあってバングラデシュ展にない国はシンガポールとフィリピン。バングラデシュにあって福岡にない国はブータン、クウェート、北朝鮮。両国のアジア観や政治的スタンスの違いによるのでしょうか…
 
 日本とのかかわりでは、在バングラデシュ日本大使館のウェブサイトに掲載されたデータによれば、1955年から2013年の間に文部科学省の奨学制度で来日したバングラデシュ人は3,236人。そのうち2007年までの留学生の1.83%が美術・音楽・演劇を学んでいます。美術を学ぶために留学した人となると数としては少ないようですが、バングラデシュの首都ダッカで仕事をするときには下記で紹介する日本留学経験のあるアーティストが目立ち、現地での日本作家の制作活動を助けてくれたこともあります。

 インド・パキスタンの独立以後で、バングラデシュ近代美術と日本とのかかわりを示す事績は、東パキスタン時代の1956~7年、南アジア近代美術史の巨匠といえるザイヌル・アベディン(Zainul Abedin、1914~1976)の来日です。彼はロックフェラー奨学金により1年かけて世界各地を旅しますが、最初に訪れた日本には2か月滞在し、その間、東京の大丸デパートで個展を開催しています。その展覧会は日本美術家連盟と毎日新聞社が後援しており、同連盟が担っている国際造形芸術連盟(International Association of Plastic Arts, IAPA 注3)日本委員会がアベディンを招いて歓迎の懇談会をしています。
 日本で美術を学んだ作家として最も早いのは、モハメド・キブリア(Mohammad Kibria、1929~2011 以下リンクは「わが黄金のベンガルよ」展示作家)で、彼は1959~62年に東京藝術大学で絵画を学び、また萩原英雄から木版画の指導を受けています。キブリアは1960年に東京の養清堂画廊、63年に美松書房画廊で個展を開いただけでなく、第1回アジア青年美術家展(1957年)、第2回東京国際版画ビエンナーレ(1960年)、第5回現代日本美術展(1962年)など日本でもしばしば発表しました。
注3 1963年から英語名称をInternational Association of Artに変更。ただし日本美術家連盟がIAAを使用するのは1965年以後。『連盟ニュース』142(1965年5月)による。このIAAはのち福岡市美術館におけるアジア美術展の創設に大きな役を果たすことになる。

 1971年のバングラデシュ独立後では、1975にカジ・ギャスディン(Kazi Ghiyasuddin、1951~)が文部省国費留学生として来日し、1985年には東京藝術大学で外国人留学生として初めて博士号を取得しています。日本での発表は、二紀会展や安井賞展ほか、ギャラリーでの個展は50回を超え、日本語での画集も数冊出版されています(注3)。そのためギャスディンは日本で最もよく知られたバングラデシュ作家といえるでしょう。福岡とのかかわりでは、第2回アジア展(1985年)に出品、福岡市美時代に水彩画を2点、アジ美時代に油彩画を2点収蔵しています。
注3 『ベンガルの魂―カジ ギャスディン画集』(日本放送出版協会、1986年)、『自然の音―ベンガルの魂』(筑摩書房、1998年)ほか 

 次に、モハマド・カムルル・ハッサン・カロン(Md Qamrul Hasan Qalon 1949-2003)が1979年に国際交流基金の短期招聘で来日して、やはり東京藝大で学び、同年に東京のギャラリーで個展を開催しています。ウェブサイトによれば1990年に路上でパフォーマンスをする意欲的な作家だったようですが、故人であるため詳細は不明。アジ美にも作品が残されています。

 1980年代に入ると、マームドゥル・ハク (Mahmudul Haque 1945~)が1981年から1984まで筑波大学で版画を学んでいます。福岡市美術館の第2回アジア美術展(1985年)に版画を出品。

 モハマッド・ユヌス(Mohammad Eunus、1954~)は1985年に来日し、多摩美術大学大学院で宮崎進に学びます。このユヌスは行動美術展に出品を続け、1986年に奨励賞、1987年に新人賞、そして1989年行動美術賞(その受賞作品が次回に紹介する当館所蔵品です)と、評価を高めていきました。1989年の第3回アジア美術展(福岡市美術館)にも出品しました。

 1991年からは日本の文部省の国費留学生としてゴラム・サルワール・コビールGolam Sarwar-e-Kabir、1960~ 作家は「カビール」を使う
が、アジ美ではベンガル読みを採用)が来日、京都市立芸術大学、成安造形短期大学、愛知県立芸術大学、東京藝術大学で学び、東京藝大で博士号を取得しています。愛知での指導教官は笠井誠一、東京では大沼映夫と羽生出(はにゅう・いづる)。コビールは第3回アジア美術展(1989年)で、抽象絵画が主流だった当時のバングラデシュ美術では珍しく、シルクスクリーン技法により写真イメージを取り入れた鮮烈な作品を出品して注目されました(そのうち1点は「わが黄金のベンガルよ」で展示中)。奇しくも同じ第3回アジア美術展に出た山本富章は同じ愛知芸大の先生で、櫃田伸也らとともにコビールのお気にいり作家のひとりでした。1996年には名古屋画廊の支援により横浜美術館のギャラリーで個展を開いています。筆者は、1995年の第7回バングラデシュ・ビエンナーレの日本作家コミッショナーを務めたとき、ビエンナーレ参加が決まっていた山出淳也と、大分の由布院駅のギャラリーでのコビールの個展を見に行って、現地での情報を教えてもらったことがあります。

 1993年からはマームドゥル・ハクの弟のモスタフィズル・ハク(Mostafizul Haque、1957~)が兄と同じ筑波大学で日本画を学んでいます。私が国際交流基金の依頼で前述のバングラデシュ・ビエンナーレの日本作家コミッショナーとして3人の作家(風倉匠、阿部守、山出淳也)の現地制作をおこなったときに、このモスタフィズル・ハクに現地コーディネーターを務めていただき、日本とバングラデシュの日用品を交換するという山出のプロジェクトを含めたアシスタントや材料の手配、展示作業などで大活躍してくれたのは忘れがたいです。

 さらに近年では、フィロズ・マハムド(Firoz Mahmud、1974~)が多摩美術大学(2005~2007年)と東京藝大(2008~11年)で学び、新世代の作家らしく歴史的な図像を引用した絵画やインスタレーションを発表しています。彼の多摩美の先生はリー・ウーファン(李禹煥、イ・ウーファン)と建畠晢(あきら)、東京藝大で木幡和枝、坂口寛敏、近藤健一ら。日本国内の主要な国際展である越後妻有トリエンナーレ(2009、Dynamo Art Project)、あいちトリエンナーレ(2010年)、瀬戸内トリエンナーレ(2013、BD Project)に招待出品するという高い評価を得ました。

 1988年には目黒区美術館区民ギャラリーで「バングラデシュ現代美術展」が開かれ、上記のキブリア、ギャスディン、ハク、ユヌス、コビールを含む22人の作品が展示されました(注4)。またモハマッド・ユヌスが行動美術展で受賞を重ね、G.S.コビールがいくつかの絵画コンクールで受賞しているものの、フィロズ・マハムドのように大型国際展で招待出品した例は他になく、日本ではバングラデシュ作家はほぼ「洋画」の業界で活動してきたといえます。そのことは、ギャスディンの日本での指導教官は野見山暁治で、お気に入り作家は麻生三郎と猪熊弦一郎だったのに対し、フィロズ・マハムドは同じ質問に対し、小澤剛、田中功起、小泉明郎、CHIM↑POM、森村泰昌という国際的な現代アートのスター作家があがり、人脈と世代の大きな違いを感じさせます。
注4 在日バングラデシュ大使館、国際交流基金、目黒区教育委員会の主催。このときに最年少で出品したのがアジ美で個展を開いたニルーファル・チャマンでした。

 作品においても、版画技法を取り入れたコビール作品や、フィロズ・マハムドの政治的主題のインスタレーションを除いて、日本で学んだバングラデシュ作家には、絵の具の自然な流れによる意図せざる形態を利用したオートマティズム的抽象絵画が主流であり、先端的な技術や政治性を重視する現代アート界から注目されにくかったのでしょう。しかし2002年にも東京のヒルサイドギャラリーでキブリアが個展を開いているほか、留学後も日本に住んだギャスディンやコビールのようにギャラリーの支援により多数の個展を開いているのは、彼らの作品が日本人の感性に響くものがある証拠でしょう。
(つづく)

(学術交流専門員 黒田雷児)
20211219/20220303/0322修正