1 産業構造の変化のなかで移動する少女たち 前のブログ記事 (10 月28 日 ) で書いたように、 『快楽的出帆』は近年まで多くの女性歌手にカバーされカラオケにもなっていますが、それは 1958 年・台湾という時代・地域を思い出させる曲でもあります。この時代には、台湾社会は農業社会から工業社会へという大きな変化を迎えており、農村の女性が都会へと工場などの仕事を求めて移動していきました(そういう画題は 1980 年代韓国の「 民衆美術 」にもしばしば登場します)。 曾根史郎の歌った 吉川静夫による歌詞 は、男性が友人や妹と別れて海の向こうのどこかに働きに行く歌詞でしたが、 蜚声による翻案歌詞 では、若い女性が父母と離れてどこかに希望をもって旅立つ内容になっています。このような時代を代表する女性像が 歌われているから 呉天章は こ の歌を 使ったといえます 。 2 白色テロ時代の慰安としての日本演歌 1950 年代以後の台湾国民党政府は大陸への「反攻」を希求し、冷戦構造ではアメリカ陣営の一翼を担いながら、一種の鎖国状態にありました。 『快楽的出帆』の 11 年前である 1947 年に起こった 「 228 事件 」(「 闇に刻む光 」で展示された黄栄燦作品を参照)は、国民党政府による「白色恐怖(テロ)」の時代につながり、共産主義者またはその疑いがもたれる者への弾圧だけでなく、文化においても、社会の暗黒面・陰惨さを示す表現、性的表現などもきびしく規制されました。 そのような文化的鎖国と国内政治・文化の過酷な統制のなかで、台湾民衆に楽しみや慰安を提供したのは日本の歌謡曲、特に演歌でした。 1950 - 70 年代には日本演歌が人気を博し、特に船員や、1で述べた地方から都会の工場に働きに来た女性の心情を歌った曲が好まれました。当時の工員は工場でラジオの歌謡曲を聞きながら働いていたのです。 ちなみに作者の 呉天章は 1956 年生まれなので 『快楽的出帆』発売のときはまだ二歳でした。にもかかわらず彼はこの歌の記憶を鮮明にもっているそうです。この歌がスタンダード曲として長く愛されてきたからかもしれませんが、作者がまさに「出帆」する場所、港町である基隆の生まれであったからでもありました。 3 写真館の夢と幻滅 日本を含むアジア各地では卒業式や
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